「京大フォルマリスム」の行方
卒業設計講評会シーズンです。今年は京都(diploma x KYOTO'10)
、新潟(session! 2010)、名古屋(dipcolle)、北海道(北海道卒業設計合同講評会)の合同展に呼んで頂いております。先週末、京都と新潟に行って来ましたので、順番に振り返りたいと思います。
まずは京都から。
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2月26日、まず京都diploma x KYOTO'10へ。広い会場に140点。まずは予備審査から。まずざっと1周し、京大勢(特に高松研)が群を抜いていることに驚く。普通にファースト・インパクトだけで賞を選んだら、確実に京大が独占してしまうと思った。それくらい圧倒的。
2周目。そこに立てられている論理に注目すると、京大勢のほとんどの作品は自己完結的でシステムとして閉鎖したフォルマリスムであることに気づく。この「京大フォルマリスム」は、ビジュアルにインパクトはあるが、建築論として自閉しており、ストーリーの奥行きがみられるものが少ない。京大勢を批判するにはその点を突けばいいことはわかってきた。この日の審査のテーマが定まった。
3周目。自己完結的でなく、コンテクストと十分に対話している、フォルムのシステムとして開放性のある作品を探す。なんとか5作品(京大生も含む)をピックアップ。都市形態と関連づけたもの(立命館・岡田晃佳)、複数性を持ち込んだもの(京大・中園幸佑)、プロセスと関連づけているもの(京大・冨田直希)、身体性と関連づけたもの(京大・藤井亮)、ランドスケープと関連づけたもの(立命館・磯崎裕介)など。
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審査は投票結果に各審査員の見方が現れて面白かった。僕は「京大フォルマリスム」を崩す論理を構築できるか、という議論を立てようとそのフレームを何度も強調したが、結局は冒頭の時間的なロスもあだとなって大幅に時間が押し、そのまま終盤戦に突入。
決選投票をしたところ、京都大の木下 vs 立命館大の藤岡という構図に。藤岡作品は魅力的な案ではあったが、説明を聞いても表現力、論理的一貫性において圧倒的な京大陣を引きずり下ろして新しい流れを作るだけのインパクトは感じられず、これを1位にするには審査員側に相当の論理武装が必要だと思われた。
ところがこれを推す塚本さんは「木下作品は建築として美しくない。藤岡作品は優しさがいい」とそっけない。塚本さんらしいといえば塚本さんらしい判断だが、かといって十分な議論を積み上げるだけの時間もなく、再投票の結果藤岡作品が1位になり、賞が決定。
論理を積み上げるというよりも審査員の価値判断が前面に出たかたちで賞が決定したため、恣意的な印象が残った。twitterをみていても観客が置いていかれているような空気が漂っていた。
もっともこれは、議論のまな板の上で作品が力を帯びていくプロセスを醸成するには時間がなさ過ぎたからで、冒頭の予備審査の方法をめぐる議論によるロスやタイプキーピングなど、運営の問題も大きかったと思う。改善する方法はあるはずだ。
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終了後のパーティでは京大の学生たちと話す機会があった。審査結果に不服だという。「京大」でひとくくりにされることで割を食ったと感じたようである。
僕としては、カテゴリー毎に作品を選び、審査の軸を作り、十分に討議をして賞を与えるストーリーを共有するというのが自分の考え方だと伝える。「京大フォルマリスム」は圧倒的なプレゼではあるが、論をみるとそれ自体でひとつのカテゴリーをなしている。だから京大内部も含め、論理を審査し、対抗馬を探して軸を探そうとしたのである。1位の案については京大勢を押さえるだけの論理的なストーリーは共有できなかったと思うし、審査員の価値観に一致したことが理由になってしまっているようにみえたと思う。ただしそうだとしてもそれが審査というものだし、2位は京大の案だったのだから、京大カテゴリーのなかで1位になるための戦略も必要だろう、と伝えた。
パーティを終え、塚本さんとホテルを出て、木屋町で山崎さん、満田さん、森田さんと合流。大人だけで飲む。
そうやって大人たちで楽しく飲んでいたところ、そろそろお開きというときに「高松研の連中が藤村さんと飲みたいと言っています」と連絡があった。「京都には『討ち入り』という文化がありますから」と満田さんがいうので、最初は冗談かと思ったが、店を出ると高松研の連中がにこりともせずに待ち構えており本当に「討ち入り」モードだった。
僕としてはとことん議論するのが好きなので喧嘩上等ではあったが、満田さんと森田さんが心配してついて来てくれたくらいなので多少の緊迫感があったのだろう。でもいざ議論し始めるとプライドが高いのか面と向かって座ろうともしないし、挙げ句の果てにみんな寝てしまうし、「討ち入り」の体をなしていない。どちらかというと当事者より、先輩たちのほうがもの申したかったようだ。
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彼らの主張は「明らかに圧倒的なプレゼをしている自分たちが上位に選ばれないのは公平さに欠ける」、「審査員の持説を披露する場所になっているのはおかしい」というもの。昨年のせんだいで「京大は選ばない」という審査員の発言があったり、持説の範疇で議論しようとする某建築家のふるまいなどが気になるのだという。ここ数年、京大生があまりにも注目され、それゆえに排除すると感じられるような動きも出ているらしいので、少しナーバスになっているようにも見受けられる。
それを僕にぶつけるのはお門違いというものだが、彼らの気持ちもわからないでもない。ただ話してみると「超線形プロセス2.0」を標榜している冨田直希(彼も京大だが高松研ではなく門内研)に僕が票を入れていたのが気に入らないらしい。「審査の私物化」だという。
冨田は「超線形設計プロセス」を実践すると公言していて学生の間でもそれなりに話題になっていたらしい。どこへいっても人気のある建築家(最近だと藤本・平田)の劣化コピーみたいな案はたくさんあるのだが、冨田の場合は学術レベルで設計プロセスを研究している門内研の所属なので単なるコピーとは話が違う。実際に見てみると、超線形プロセスを3段階に分け個別に検討を重ねて統合するという、論理的な検討を含んだうえで団地を設計するという、極めて精緻な批判的な実践を示していた。
この冨田の実践そのものは興味深いのだが、公開講評会で討議するには僕との関係で閉じすぎていて、塚本さんや青木さんを(そして観客を)巻き込めむストーリーがないのは明らかである。もしこの作品にこの場での役割があるとすれば、全体の核になっている「京大フォルマリスム」の対抗馬として審査員が位置づけて、議論を引っ掻き回す役割である。当然1位になるのは難しいが、批評的なポジションにはなり得ただろう。しかし、他の審査員は(当然のことながら)、「あぁ、藤村のまねしているのね」と捉えられてしまい、意図を伝えきれなかったようだ。
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ちなみに、審査員としては、自分の作品に似たものや似た考え方を選ぶのは面白くないものである。持説の披露は講演会でやればよく、公開講評会ではその場の雰囲気のなかで他の審査員とセッションし、新たな評価軸を発見し、その象徴として埋もれていた意外な作品にスポットライトを当ててピックアップするのが一番クリエイティブだし、そういう作品を一緒に探し出す過程で出展者全員が参加できるような議論の平面をつくることに一番の意味があると思う。そういう全体のシナリオを短い時間でささっと考えて点を入れるのが審査シナリオの設計というものである。こういう場で「自分が好きなもの」に投票するほど閉じているわけではない。
そうした考えを伝えると、卒業設計講評会や審査員の建築家に不信感いっぱいの彼ら(というか話を最後まで聞いていたのはひとりだけだったが)も少しずつ納得してくれた。
彼らの気持ちもわかるとはいえ、いいものをつくればそれが正当に評価される、というのも少々ロマンチックな考えではある。審査員それぞれに考えがあり、その場の流れというものもあるのだから、そのなかで相手に自分たちをピックアップさせるようなストーリーづくりは必要だろう。学生の卒業設計講評会といってもコミュニケーションである。押し付けるだけでなく、相手のストーリーにうまく載せる具体的な交渉術もこれほどの規模になると必要なのではないか。
彼らには「せんだい」が控えている。端的にいって、審査委員長の隈さんが閉鎖的なフォルマリスム的作品を選択するはずはないのだから、プレゼが少々充実しているくらいでは隈さんを巻き込むことはできないだろう。賢い京大生のことだから、戦略を練って上位を狙って欲しい。そこで彼らの実力の真価が問われるだろう。
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というわけで関西地区ではここ数年続いていた京大の一党支配体制が崩れたわけだが、それは単なる偶然であって、依然として実力差は歴然としていると思う。高松研の学生たちは卒業設計以外でも研究室単位で外部で展覧会をやったりしてトレーニングしているようだし、そういう努力が実を結んでいるとすれば、プレゼン方法にしろ、コンセプトづくりにしろ、京大以外の学生たちは彼らに刺激を受けてもっとトレーニングする必要があるだろう。
作品の内容としては、京大のフォルマリスムがここまで発達しているのだから、そこから目を逸らさずに、より自己批判的に発展させる方向が一番生産的なのではないかと思う。いくつかの作品にはその萌芽がみられたが、現状では多くの作品が形式としての一貫性に閉じているので、コンテクストとの対話に開かれた作品が少ないのが気になる。
その意味で冨田が「超線形プロセス」を京大コンテクストに持ち込もうとしたのは意味がある。京大生のほとんどは『思想地図』の僕の論文もLRAJで議論されたことも知らなさそうだが、彼らの議論するべき方向と、僕らが昨年議論してきたことには、いろいろ接点があるように感じる。
参考:LRAJ 2010 "METABOLISM 2.0" を終えて
というわけで、今回の件に決着をつけるべく、京大の連中を集めて、RAJの公開収録などしてみたらよいのではないかと思っている。タイトルは「フォルマリスムの行方」。彼らのもやもやにもう少しつきあってみると、いろいろ拓けるような気もする。彼らの「討ち入り」には、多少屈折しているとはいえ、そう思えるパワーを感じたことも確かなのである。
fujimura