2010年02月28日

「京大フォルマリスム」の行方

卒業設計講評会シーズンです。今年は京都(diploma x KYOTO'10)
、新潟(session! 2010)、名古屋(dipcolle)、北海道(北海道卒業設計合同講評会)の合同展に呼んで頂いております。先週末、京都と新潟に行って来ましたので、順番に振り返りたいと思います。

まずは京都から。

2月26日、まず京都diploma x KYOTO'10へ。広い会場に140点。まずは予備審査から。まずざっと1周し、京大勢(特に高松研)が群を抜いていることに驚く。普通にファースト・インパクトだけで賞を選んだら、確実に京大が独占してしまうと思った。それくらい圧倒的。

2周目。そこに立てられている論理に注目すると、京大勢のほとんどの作品は自己完結的でシステムとして閉鎖したフォルマリスムであることに気づく。この「京大フォルマリスム」は、ビジュアルにインパクトはあるが、建築論として自閉しており、ストーリーの奥行きがみられるものが少ない。京大勢を批判するにはその点を突けばいいことはわかってきた。この日の審査のテーマが定まった。

3周目。自己完結的でなく、コンテクストと十分に対話している、フォルムのシステムとして開放性のある作品を探す。なんとか5作品(京大生も含む)をピックアップ。都市形態と関連づけたもの(立命館・岡田晃佳)、複数性を持ち込んだもの(京大・中園幸佑)、プロセスと関連づけているもの(京大・冨田直希)、身体性と関連づけたもの(京大・藤井亮)、ランドスケープと関連づけたもの(立命館・磯崎裕介)など。

審査は投票結果に各審査員の見方が現れて面白かった。僕は「京大フォルマリスム」を崩す論理を構築できるか、という議論を立てようとそのフレームを何度も強調したが、結局は冒頭の時間的なロスもあだとなって大幅に時間が押し、そのまま終盤戦に突入。

決選投票をしたところ、京都大の木下 vs 立命館大の藤岡という構図に。藤岡作品は魅力的な案ではあったが、説明を聞いても表現力、論理的一貫性において圧倒的な京大陣を引きずり下ろして新しい流れを作るだけのインパクトは感じられず、これを1位にするには審査員側に相当の論理武装が必要だと思われた。

ところがこれを推す塚本さんは「木下作品は建築として美しくない。藤岡作品は優しさがいい」とそっけない。塚本さんらしいといえば塚本さんらしい判断だが、かといって十分な議論を積み上げるだけの時間もなく、再投票の結果藤岡作品が1位になり、賞が決定。

論理を積み上げるというよりも審査員の価値判断が前面に出たかたちで賞が決定したため、恣意的な印象が残った。twitterをみていても観客が置いていかれているような空気が漂っていた。

もっともこれは、議論のまな板の上で作品が力を帯びていくプロセスを醸成するには時間がなさ過ぎたからで、冒頭の予備審査の方法をめぐる議論によるロスやタイプキーピングなど、運営の問題も大きかったと思う。改善する方法はあるはずだ。

終了後のパーティでは京大の学生たちと話す機会があった。審査結果に不服だという。「京大」でひとくくりにされることで割を食ったと感じたようである。

僕としては、カテゴリー毎に作品を選び、審査の軸を作り、十分に討議をして賞を与えるストーリーを共有するというのが自分の考え方だと伝える。「京大フォルマリスム」は圧倒的なプレゼではあるが、論をみるとそれ自体でひとつのカテゴリーをなしている。だから京大内部も含め、論理を審査し、対抗馬を探して軸を探そうとしたのである。1位の案については京大勢を押さえるだけの論理的なストーリーは共有できなかったと思うし、審査員の価値観に一致したことが理由になってしまっているようにみえたと思う。ただしそうだとしてもそれが審査というものだし、2位は京大の案だったのだから、京大カテゴリーのなかで1位になるための戦略も必要だろう、と伝えた。

パーティを終え、塚本さんとホテルを出て、木屋町で山崎さん、満田さん、森田さんと合流。大人だけで飲む。

そうやって大人たちで楽しく飲んでいたところ、そろそろお開きというときに「高松研の連中が藤村さんと飲みたいと言っています」と連絡があった。「京都には『討ち入り』という文化がありますから」と満田さんがいうので、最初は冗談かと思ったが、店を出ると高松研の連中がにこりともせずに待ち構えており本当に「討ち入り」モードだった。

僕としてはとことん議論するのが好きなので喧嘩上等ではあったが、満田さんと森田さんが心配してついて来てくれたくらいなので多少の緊迫感があったのだろう。でもいざ議論し始めるとプライドが高いのか面と向かって座ろうともしないし、挙げ句の果てにみんな寝てしまうし、「討ち入り」の体をなしていない。どちらかというと当事者より、先輩たちのほうがもの申したかったようだ。

彼らの主張は「明らかに圧倒的なプレゼをしている自分たちが上位に選ばれないのは公平さに欠ける」、「審査員の持説を披露する場所になっているのはおかしい」というもの。昨年のせんだいで「京大は選ばない」という審査員の発言があったり、持説の範疇で議論しようとする某建築家のふるまいなどが気になるのだという。ここ数年、京大生があまりにも注目され、それゆえに排除すると感じられるような動きも出ているらしいので、少しナーバスになっているようにも見受けられる。

それを僕にぶつけるのはお門違いというものだが、彼らの気持ちもわからないでもない。ただ話してみると「超線形プロセス2.0」を標榜している冨田直希(彼も京大だが高松研ではなく門内研)に僕が票を入れていたのが気に入らないらしい。「審査の私物化」だという。

冨田は「超線形設計プロセス」を実践すると公言していて学生の間でもそれなりに話題になっていたらしい。どこへいっても人気のある建築家(最近だと藤本・平田)の劣化コピーみたいな案はたくさんあるのだが、冨田の場合は学術レベルで設計プロセスを研究している門内研の所属なので単なるコピーとは話が違う。実際に見てみると、超線形プロセスを3段階に分け個別に検討を重ねて統合するという、論理的な検討を含んだうえで団地を設計するという、極めて精緻な批判的な実践を示していた。

この冨田の実践そのものは興味深いのだが、公開講評会で討議するには僕との関係で閉じすぎていて、塚本さんや青木さんを(そして観客を)巻き込めむストーリーがないのは明らかである。もしこの作品にこの場での役割があるとすれば、全体の核になっている「京大フォルマリスム」の対抗馬として審査員が位置づけて、議論を引っ掻き回す役割である。当然1位になるのは難しいが、批評的なポジションにはなり得ただろう。しかし、他の審査員は(当然のことながら)、「あぁ、藤村のまねしているのね」と捉えられてしまい、意図を伝えきれなかったようだ。

ちなみに、審査員としては、自分の作品に似たものや似た考え方を選ぶのは面白くないものである。持説の披露は講演会でやればよく、公開講評会ではその場の雰囲気のなかで他の審査員とセッションし、新たな評価軸を発見し、その象徴として埋もれていた意外な作品にスポットライトを当ててピックアップするのが一番クリエイティブだし、そういう作品を一緒に探し出す過程で出展者全員が参加できるような議論の平面をつくることに一番の意味があると思う。そういう全体のシナリオを短い時間でささっと考えて点を入れるのが審査シナリオの設計というものである。こういう場で「自分が好きなもの」に投票するほど閉じているわけではない。

そうした考えを伝えると、卒業設計講評会や審査員の建築家に不信感いっぱいの彼ら(というか話を最後まで聞いていたのはひとりだけだったが)も少しずつ納得してくれた。

彼らの気持ちもわかるとはいえ、いいものをつくればそれが正当に評価される、というのも少々ロマンチックな考えではある。審査員それぞれに考えがあり、その場の流れというものもあるのだから、そのなかで相手に自分たちをピックアップさせるようなストーリーづくりは必要だろう。学生の卒業設計講評会といってもコミュニケーションである。押し付けるだけでなく、相手のストーリーにうまく載せる具体的な交渉術もこれほどの規模になると必要なのではないか。

彼らには「せんだい」が控えている。端的にいって、審査委員長の隈さんが閉鎖的なフォルマリスム的作品を選択するはずはないのだから、プレゼが少々充実しているくらいでは隈さんを巻き込むことはできないだろう。賢い京大生のことだから、戦略を練って上位を狙って欲しい。そこで彼らの実力の真価が問われるだろう。

というわけで関西地区ではここ数年続いていた京大の一党支配体制が崩れたわけだが、それは単なる偶然であって、依然として実力差は歴然としていると思う。高松研の学生たちは卒業設計以外でも研究室単位で外部で展覧会をやったりしてトレーニングしているようだし、そういう努力が実を結んでいるとすれば、プレゼン方法にしろ、コンセプトづくりにしろ、京大以外の学生たちは彼らに刺激を受けてもっとトレーニングする必要があるだろう。

作品の内容としては、京大のフォルマリスムがここまで発達しているのだから、そこから目を逸らさずに、より自己批判的に発展させる方向が一番生産的なのではないかと思う。いくつかの作品にはその萌芽がみられたが、現状では多くの作品が形式としての一貫性に閉じているので、コンテクストとの対話に開かれた作品が少ないのが気になる。

その意味で冨田が「超線形プロセス」を京大コンテクストに持ち込もうとしたのは意味がある。京大生のほとんどは『思想地図』の僕の論文もLRAJで議論されたことも知らなさそうだが、彼らの議論するべき方向と、僕らが昨年議論してきたことには、いろいろ接点があるように感じる。

参考:LRAJ 2010 "METABOLISM 2.0" を終えて

というわけで、今回の件に決着をつけるべく、京大の連中を集めて、RAJの公開収録などしてみたらよいのではないかと思っている。タイトルは「フォルマリスムの行方」。彼らのもやもやにもう少しつきあってみると、いろいろ拓けるような気もする。彼らの「討ち入り」には、多少屈折しているとはいえ、そう思えるパワーを感じたことも確かなのである。

fujimura

2010年02月23日

LRAJ 2010 "METABOLISM 2.0" を終えて

2月6日、LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010が開催されました。おかげさまで盛況のうちに終了しました。

1. 当日の「雰囲気」をざっと知りたい方はこちらをご覧下さい。
Y-PAC.TV vol.2 LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010
フリーペーパー同様、当日会場で映像の「ライブ編集」を行い、公開したものです。
制作は横浜国立大学の学生グループY-PAC。

2. もう少し詳しく知りたい方は下記の実況レビューをご覧下さい。
LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010 実況レビュー(松島JP)

3. さらに内容をじっくり追いたい方はust動画を公開していますのでご覧下さい。
#LRAJ2010 USTREAMレポート(fujii-TV)
公開は2月28日までの予定とさせて頂いております。

4. そして、裏方の様子を知りたい方は福島の建築家・佐藤敏宏さんのレポートをご覧下さい。
LRAJ 2010 もう一つのライブ(佐藤敏宏)

今回の議論はまず、冒頭の第1セッションで「メタボリズム」が社会工学を背景としていたのに対して、「メタボリズム2.0」は集合知との関係で建築や設計の問題を考えるという問題設定をしました。カプセルやメガストラクチャーのイメージが重要なのではなく、社会が技術革新とともに構造転換する時代に、設計という概念はいかに更新可能か、を議論することを目的としていたわけです。

この前提を共有するにはいくつかのアクロバティックな設定が必要でした。まず本物のメタボリストを呼ばないこと。単なる再評価ではなく、書き換えを行うからです。次に生命メタファーを断ち切ること。あくまで社会との関係で設計を論じるのであって、創作のためのメタファーが欲しくてこういう問題設定をしているわけではないからです。そして、イメージの話をしないこと。僕らはあくまで方法を問題にしているので、初期段階ではゴールイメージを出さずに議論する必要があると考えました。

結果的に、プレゼンタもコメンテータも物理や情報、批評家や社会学者といった異分野の論客が並び、連君や酒井君のような卒論と修論を出し終えたばかりの現役学生と磯崎新さんのような国際的な建築家がフラットに並び、設計について論じるという刺激的な状況が生まれました。

アクシデントもミスもあり、実力が足りないと思わされる場面もあり、反省材料には事欠かない1日ではありましたが、登壇者の方々を始め、周囲の方々のサポートを頂いて、積み重ねて来た議論をひとつのかたちにできたことに、まずは感謝しております。

他方、こうしたリアルな空間でのイベントのあり方については、いろいろ考えさせられる場面がありました。ustとtwitterというツールが広がって来て、ライブで文字起こしをしてフリーペーパーをその場で発行するということのインパクトが薄れて来ていると実感したからです。家にいても内容はustで十分に追えるし、twitterで熱気も共有できてしまう。twitterや他のメディアをゆっくり堪能できるという意味では家にいたほうがかえって情報量が多いのかも知れません。そのときにリアルな空間で何を仕掛ければより効果的なのか。

これこそがまさに、LRAJのひとつのテーマであった情報と物質の関係です。かつてレムコールハースは、情報空間の図式的明瞭性と物質空間の空間的刺激の関係を論じていました。しかし、今はパソコンのモニターの前のほうが空間的刺激を享受できてしまう。空間的刺激だけでは、人を動員できなくなる時代が到来してしまったのかも知れません。このことは、デパートをはじめとして、小売店がどんどん縮小し、本やCDが売れなくなって来ている昨今の状況とパラレルだと思われます。

もうひとつの問題は、設計者と利用者の関係です。twitterを通じて、観客の反応が直に返ってくるのは刺激的であると同時に、単なる野次のような投稿も誘発してしまいます。そこで今回はtwitterの投稿をダイジェストし、誌面に反映させるという仕掛けを導入しました。炎上に陥らずに観客を巻き込み、生産的な議論を立ち上げる方法については、今後も実験していきたいと思います。

このようなことは基本的に単なるイベント運営上の問題に聞こえますが、集合知をどう立ち上げ、制度設計に反映させていくかという、社会的な課題の縮図でもあります。その意味で、イベント運営の改善点を話し合うことは、そのまま社会へのアプローチ戦略を練るためのスタディになるという問題意識があります。アンケートの意見もふまえ、成果をよく分析して次回以降のイベント設計に活かしたいと思います。

ともあれ、今回も多くの方々に支えられて活気ある議論の場を実現させることができました。ここで得たこと、特に「情報と物質の関係」「設計者と利用者の関係」という基本的な問題をベースに、また次の仕掛けを考えていきたいと思います。

特にヴィジョンを示すことについては、ゴールイメージを避けるという方針で最初にあまり出さないようにしてきたわけですが、今回のイベントでなんとか議論のフレームを提示できたので、今後徐々にかたちにしていきたいと思います。既に展覧会の企画なども動き始めていますが、今回に限らずRAJ関連のイベントや出版物は一過性のものではなく、連続したひとつながりの運動として、継続的に仕掛けていくつもりです。皆さんのお力添えがあれば幸いです。
fujimura

2010年02月05日

LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010 いよいよ開催当日です

日付が変わり、いよいよ当日になりました。興奮のうちに幕を閉じた初回(2008年:テーマ「愛と力の関係」)に比べ、昨年の第2回(2009年:テーマ「手の内側」)は緊張感を保てずに失敗するのではないかと異様に緊張したことを思い出します。今年はイベントの設計面でも新しいことにチャレンジしていますし、内容面でも気分としては攻めのモードです。

今年のテーマについて。「メタボリズム2.0」と銘打っていますが、メタボリズムそのものの評価や批評は行いません。それよりも、メタボリズムの背景にある社会工学的な思想と建築家という職能の関係が焦点になるでしょう。議論の終盤になって、「それでどういう絵が描けるか」と質問する人は必ずいると思いますが、明日はそういう議論はしません。あくまで建築と社会の関係からいかに知を紡ぐことができるのか、について議論したいと思っています。

唐突に聞こえるかもしれませんが、昨年来仕掛けて来たシンポジウム、展覧会、トークイベントなどで繰り返し議論を重ねて来た結果、徐々に立ち上がって来た議論です。

以下、簡単に振り返ってみます。


2009.1.28 思想地図シンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」
@東京工業大学
浅田彰、東浩紀、磯崎新、宇野常寛、濱野智史、宮台真司
濱野氏がプロセスプランニング論の批評性を指摘
途中壇上にて東浩紀氏が磯崎新氏に「藤村さんという若手建築家がいて〜」と解説する場面。
「鳥の巣」を例に、情報的なものと物質的なものの乖離が指摘されて終了


1.31 LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2009「手の内側」
@INAX:GINZA
東工大シンポジウムに大いに刺激され、
総括討議にてアーキテクチャ論の展開を試みるも
若手建築家の間ではあまり共有されておらず、不発気味


5.29『思想地図』vol.3「アーキテクチャ特集」発売
「アーキテクチャ」をめぐる本格的な特集
拙稿「グーグル的建築家像をめざして」掲載


6.29 トークイベント「設計/デザインを考える」
濱野智史 藤村龍至
@青山ブックセンター
濱野氏より、超線形プロセス=「人間のアルゴリズム化」=googleという
共通点が指摘される


7.31-8.29 「生成の世代」展
@hiromiyoshii
藤本壮介 中山英之 中村竜治 吉村靖孝 藤村龍至 dot architects 山崎清道
キュレーション:藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT


10.1 建築夜楽校「データ、プロセス、ローカリティ」
@日本建築学会
中山英之 小嶋一浩 山梨知彦
難波和彦 江渡浩一郎
モデレータ:濱野智史 藤村龍至

濱野氏 CIM CITYからBIM CITYへ


10.8 建築夜楽校「データ、プロセス、ローカリティ」
@日本建築学会
五十嵐淳 家成俊勝 井手健一郎
古谷誠章 鈴木謙介
モデレータ:濱野智史 藤村龍至

地域社会の空洞化した現代においては、
コンテクストがあってプロセスがあるのではなく、
プロセスが走ることでコンテクストが生成するあり方が示唆される。


11.6-14 「ARCHITECTURE AFTER 1995」展
@大阪工業技術専門学校
キュレーション:藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT


11.6 AA95展関連シンポジウム「1995年以後を考える」
鈴木謙介 藤村龍至
@大阪工業技術専門学校
夜楽校で提示された「意思決定システムとしての建築」
という命題を再確認
建築はメディアとしてのリッチネスが高いゆえに
コミュニケーション環境を再構築する力がある

2009年は、『思想地図』との関わりをきっかけに大きく議論が開けた1年でした。
LRAJ2010はその成果を整理、確認し、
今後の課題を提示する機会としたいと思います。

某歴史工学家より「歴史構想家として振る舞え」「偽の命題に絡めとられるな」と
激励のメッセージを頂きました。

ご期待に添えるよう、頑張りたいと思います。
一緒に楽しんで頂ければ幸いです。

fujimura