2009年06月20日

夢と現実、学生と社会人、ビジュアルとマニュアルのあいだ

16日、理科大エスキスチェック。淡々と模型をバージョンアップさせて来ている人もいるが、「家具」のフェイズになって足踏み状態となる者も出て来た。

よくCADだと寸法が身に付かない、と言われるが、これまでイマイチ理解できなかった。コンピュータ=ヴァーチャル=寸法感覚の欠如、というのはいささか図式的すぎるではないか、と思っていたが、理科大の学生を見ていると、本当にそうなのでびっくりしている。

個人の能力もあるだろうが、昨今はゆるゆるの平面に家具と洗濯物と植木鉢をばらまくのが流行だということもあり、寸法で空間を構築していく設計のイメージがそもそも湧かないらしい。

コンピュータ世代にとってそれは深刻な問題のように響くが、自分の経験に照らしても、単にいくつか基本的な寸法を覚えればいいだけの話で、問題はそこまで深くない。コンピュータ化と寸法感覚の欠如は直接的には関係なく、単にコピペが簡単に出来るので自分で寸法を入力しなくてもよくなり、誰かからもらった家具データをとりあえず並べる、ということが起こりやすい、というだけのことである。どちらかというとGUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)やマウスのせいである。

データの複製コストが下がり、異なるバージョンを出しやすくなったことはCAD化の最大のメリットのひとつではあるが、教育レベルではその部分を注意深くフォローしておかないと「製図」にならないということがよくわかった。逆に言えばそこさえ改善すれば図面が見違えるように濃密になるということも首都大の授業で検証できたことである。

なので、自分のスタジオでは毎回、学生ひとりひとりに「これ、何ミリのつもりで描いたの?」とひとつひとつ質問し、チェックすることにしている。それでその人の寸法の感覚や手抜き度合いが把握できるからである。こちらとしては、コピペを「摘発」することが目的ではなく寸法を覚えてもらうことが目的なので、その場で具体的な数字も確認しながら共有していく。

この日、最後に遠藤勝勧さんの本を見せたらいいリアクションだった。寸法はイメージという夢を壊すものではなく、寸法という現実をもとにイメージを膨らませる手がかりのようなものなのだ。その感覚が共有できるといい。

本来「設計」とは、現実を切り離して夢だけを語るのではなく、夢を切り離して現実だけを語るのではなく、夢と現実を繋ぐような作業なのではないか。面積、構造、寸法、形式といった建築的思考の諸形式は、それらをつなぐ道具になりうる。

そんなふうに夢と現実の関係について考えていたある日、上海の設計事務所に勤務するMY君が『1995年以後』のレビューを書いてくれたと連絡があった。

仕事としての建築(MY life)

さて本書は、仕事として建築を始めたばかりのボクにとっては、かなり刺激的なものです。

仕事として直面する建築は、大学(院)まで戯れていた建築とは大きく違います。
違うというか別ものです。

この違いは本当に興味深い。

お。

この違いをおもしろく感じる日もあればつまらなく感じる日もあります。
良い意味で違いを感じることもあれば悪い意味で感じることもあります。
この違いを早く知りたかったと思うときもあれば知りたくなかったと思うときもあります。

なるほど。

そんなこんなで少しずつ「仕事としての建築」を感じたり考えたりしていたボクにとって、いまこの本に出会えたことはとても大きな出来事でした。
タイミングといい内容といい、ん〜パーフェクト。

ふむふむ。

ボクと同じような境遇の若いみなさんに是非読んでもらいたい1冊です。

そしてみんなで議論しましょう。
議論のネタに最適です。

いいねえ!

しかも「超批判的青春驀進書籍!」って、なかなか笑えます。さすがMY君。

他方で、こんなリアクションもあった。

minori-minoryの日記

藤村さんの話は学科の友達ともよくします。難波さんとの対談もあったり、実作が出てきたりと、傍から見ていても今一番アツい若手の一人だと思います。

ふむふむ。

ただ、僕のような建築を勉強したての人間から見ると、どうも腑に落ちないところがいっぱいあります。

おっと。

ある友人も『Building Kってかっこ良くないよな。』って言っています。建築は外観だけではないとは思いますし、ぱっと見ではなく、じっくりと感じることの出来る価値感がBuilding Kにはあるのかもしれませんが、いかんせん無個性すぎて・・・

あれ。

社会的立ち位置が明確になりますが、若いのにここまでシステマチックな様子は、勉強し始めたばかりの僕からしたら夢がなさ過ぎて悲しくなります。

そうですか。

わざわざ完コピで引用してもらった挙げ句、「悲しい」と言われるとこちらが悲しくなるが、それはさておき、彼のリアクションは現状の藤村龍至系の言説に対する学生の平均的な反応かな、と感じるところもある。MY君の熱いリアクションと正反対である。

このことは『1995年以後』を始めとして、ROUNDABOUT JOURNAL関連の言説の響き方にも通じるものがある。

『1995年以後』はインタビュイを1971年生まれの藤本壮介さんを筆頭に、1983年生まれの大西麻貴さんまでに絞ることで、「世代」というコンセプトをはっきりと打ち出した。そのことが読者の反応の違いをくっきりと浮かび上がらせてもいる。

まず、読者を以下のように分類する。

第1層(1970年生まれ以前)39歳以上
第2層(1971-1983年生まれ)26歳以上38際以下
第3層(1984-1986年生まれ)23歳以上25歳以下
第4層(1991-1986年生まれ)18歳以上22歳以下
第5層 異分野

第2層が本書に登場するインタビューの年齢層。第4層が学生。第3層はその中間で、就職を控えた大学院生か、就職したばかりでいろいろ考えているフレッシュマンたちである。

現状のリアクションはだいたい以下のような感じだ。

第1,2層:「若手」という括りがひっかかって、斜め読み。
第4層:「社会との関係」が主題なのであまりイメージできず。
第5層:テクニカルタームが多いので少々リーチしにくい。

一番反応が熱いのがMY君のような第3層で、ブログ等で頼まれてもいないのにわざわざ引用して熱心にレビューしてくれているのはほとんどこの層である。TEAM ROUNDABOUT自体、社会に出たばかりの頃の学生と社会人、教育と実務、夢と現実のギャップについて悩み、議論したところから活動をスタートさせているから、よくも悪くもそういう年代に突出して響くメッセージとなっているのだろう。

ポテンシャルのありそうなのは第5層で、『思想地図』『ユリイカ』を通じて藤村龍至の論文を読んだ人が流入してくる可能性がある。固有名詞とテクニカルタームさえフォローできれば「1945/1970/1995」というフレーム自体は社会学や批評の分野の方が共有されているし、テーマ自体も情報化と郊外化なので、馴染みやすいはず。

よくも悪くもターゲットを絞った本になったとは思うが、何事も最初は1点突破しないことには始まらないので、試みとして悪くなかったと思っている。卒業設計のお祭り騒ぎを終えて、将来を考え始めた人、就職して、考えさせられることの多い23-27歳くらいの人には時代を超えて刺激する本になるのではないか。

1995年以後―次世代建築家の語る現代の都市と建築

リアクションを見て、次の攻め方も見えてきた。作品集(学部生のネタ)とマニュアル本(院生や実務のネタ)の間で、全部の層を同時に刺激するような本をつくりたい。

ところで刺激的な本と言えば、売れ行き絶好調という『思想地図 vol.3』の、建築学生における浸透率はまだまだ低い。理科大で『思想地図』を買っている人は現在のところ7名中1名のみ。藤村スタジオを履修していて、毎週散々呼びかけられてもこの反応だから、建築学生でこれを買って読んでいる人はまだまだ少ないのだろう。せっかく哲学、批評、文学、社会学、情報社会論、建築学を横断する、「スーパーフラット」以来の大きな共振現象が今、まさに起きつつあるというのに。

この本を買っている建築関係者はもともと思想系の本をよく読んでいたり、鈴木謙介さんのラジオのリスナーだという人が多い。つまり、建築学生が『思想地図』を買うとすれば、もともと読者だった人で、一般の建築学生にとってはビジュアル・ソースにならないし、実務家にとってはマニュアルにならないので、新たな購入動機になりにくいようだ。逆に思想系の読者が建築に興味を持って建築関係の本を買うきっかけになる可能性は高い。

20日、某研究会で濱野智史さんと会う機会があった。少し話したのだが、28日に青山ブックセンターで開かれる濱野藤村対談はかなり熱くなりそう。しかし、先ほどの理由から想像するに建築の学生はあまり来ず、藤村という新しい書き手と濱野さんの絡みに興味を持った思想地図系の読者のほうがたくさん来てくれるような気がする。

僕としては、建築関係者のほうにより多く来て欲しいと思っている。「アーキテクチャ」は「スーパーフラット」以来の共振現象であり、しかも「建築」が主題になっているという前代未聞の事態である。「建築」が時代を語るコンセプトになりかけているときに、肝心の建築家がその議論に参加していないのでは少々寂しいではないか。

「アーキテクチャ」そのものはビジュアルでもなければ、マニュアルでもない。コンセプトである。夢を見させてくれるわけでもなければ、すぐに現実に役立つものでもない。まさに夢と現実、学生と社会人、ビジュアルとマニュアルをつなぐものなのだと思う。そしてそれは、いつの時代にもあるものでもない。時代の節目にふっと現れるもので、目の前に現れたときにつかまなければならない。逃せば溝が深まるし、つかまえられればその溝を埋めることができる。

だから私たちは、このコンセプトをつかまえようと、議論を繰り返すのである。28日も、その意味で重要な機会になるだろう。だから少々課題の締め切りが迫っていようが、せっかくの休日に時間がなかろうが、この時代の節目に建築に関わることの意味を見出したいならば、この機会を見逃す手はないのである。読者諸兄の行動に期待したい。

fujimura

2009年06月14日

6月28日、濱野智史さんと「設計」を語ります

6月28日19:00より、青山ブックセンター本店(渋谷)で濱野智史さんとトークイベントが開催されます。

『思想地図vol.3』刊行記念 濱野智史×藤村龍至トークイベント 「設計/デザインを考える」 

濱野さんにはLIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2009にも来て頂きましたが、『思想地図』でも、『ユリイカ』でもご一緒していますので、久しぶりにお話しできるのがマジで楽しみです。

さっき知ったのですが、同日に同じ場所で長坂常×中山英之×西澤徹夫のトークイベントもあるようですね。芸術 vs 工学、表層 vs 深層ですか。分が悪いのでは。

でも両方見ると、現代社会の構図がよく理解できそうですね。賢明な諸兄はぜひ両方見ることをおススメします。「表層と深層を架橋せよ!」ということでw。

思想地図、ユリイカ、建築雑誌と感想がちらほら届いております。

1.インテリアを語る/検証「批判的工学主義」(matt | atlas ver.beta)

この<特集:検証「批判的工学主義」>や思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ、ユリイカ2009年6月号 特集=レム・コールハースなどで藤村龍至さんのテキストを集中して読む機会になりました。思想地図の「グーグル的建築家像をめざして」は、状況から解釈ではなく状況からプロセスを表した秀逸なテキストだと思います。

李さんのインタビューは『建築雑誌』6月号の第1特集で掲載されていますが、「これで建築とインテリアの間にコミュニケーションは生まれるのでしょうか?」と問題提起。一度ゆっくりお話伺ってみたいですね。

2.『BUILDING K』藤村龍至(藤原徹平)

すごく凝った感じのボリューム構成とすごく適当そうに見える外壁材とのアンバランスな組み合わせが、普通でない。すごく丁寧につくったフランス田舎風煮込みを100円ショップで買った陶器の器に盛るような感じかな。少し違う気もする。まな板がテーブルマットで出てきた感じか。

貴社設計の「ONE表参道」も3面がアスロック素地ですけどw。藤原さんらしい、簡潔なテキストでコメント頂き感謝。

3.『グーグル的建築家像をめざしてー批判的工学主義の可能性』を読んで(dislocated passage)

論を丁寧にトレースし、ちょいちょい口を挟むという構成で、最後に「藤村龍至氏には設計活動、実施であれ、アンビルトであれ、新しい作品を作っていくことを期待している。」と激励。肝心の彼の主張は何なのだろうとも思うが、関心を持って下さっているのは嬉しい。

このテキストを読んでいると、口を挟んでくれているところが今回の論考で意図が通じにくかったところだということがよくわかる。次回バージョンアップするときに反映させて頂くことにしよう。

そのほか、先日対談させて頂いた難波和彦さんも日記でコメントして下さっています(6月2日・3日)。

『思想地図』vol.3を読み続ける。藤村龍至の「グーグル的建築家像をめざして 批判的工学主義の可能性」は、これまで藤村さんが書いて来た「批判的工学主義」の総まとめになっている。(中略)巻頭の共同討議「アーキテクチャと思考の場所」に関する藤村流のコメントもあり、なかなか充実した論文になっている。

藤村さんが提唱する「超線形設計プロセス」は設計プロセスにおける磯崎流の「切断」を模型によって外部化し「保存」する点に特徴があるが、この「模型による外部化」について、藤村さんはちょっと気になる注釈(注釈36)を行っている。「近い将来「模型」のはたす役割は3次元CADのシステム(BIM)に移行するであろう。総合的な設計データの保存は竣工後の改修や改築をスムースにし、建築をより「プロセス・プラニング」的にする」。

このコメントの後半は正しいが、前半は明らかに間違っている。「模型による外部化=物質化」から得られるノイズに溢れた情報は、決して3次元CADシステムがもたらすヴァーチャルな情報では代替できない。藤村さんは気づいていないようだが、僕の見るところ超線形設計プロセスによる進化論的なデザインは模型化=物質化によるノイズ=突然変異によってもたらされるのだ。これは藤村さんが一連のインタビュー記事をインターネットではなくフリペーパーに外部化=物質化していることとも関係している。外部化=物質化は情報を身体化し、予測できないノイズを生み出す。要するに情報の物質化は、真の意味で予測不能な「外部」をもたらすのである。「切断」の最大の可能性は、そうした「外部」を生み出す点にあると言っても過言ではない。

コメントに感謝致します。

翌日のコメントでも「設計プロセスに非線形な不確定性=カタストロフを避けることは出来ない」ことをご指摘頂いています。

念のため補足させて頂くと、僕は設計プロセスが一般的に予測不可能性、カタストロフ、ノイズを避けることは出来ないというご指摘はもっともで、そのことに反論するつもりはありません。

ただ、僕が設計プロセスを進化論的にプレゼンテーションするのは、時代状況から考えて、予測不可能性やカタストロフを強調するよりも、その限界を踏まえた上であえて設計手続きの可能性を考える方がポジティブに感じられるからです。

難波さんが繰り返しご指摘されるように、デザインは本来非線形なプロセスをたどるし、カタストロフは避けられないし、アレグザンダーは失敗したかもしれない。が、その認識に立つことと、社会的な意志を持った人がそれを果たしたいと考えるとき、その人の挑戦を手助けする道具として「設計」を用いようとすることは別の話なので、限界よりは可能性を論じたいと思うのです。

恐らく、「設計」の限界を主張することが批判として重要だった1970年代という時代があったのだと思うが、今は時代が一回りし、「設計」を主題にしたほうがメッセージになる時代なのではないか。

a+uの『MVRDV FILES』(2002年11月臨時増刊)でのヴィニー・マースと青木淳の対談で、「シニシズムに打ち勝つには共感が必要」と主張していたことを思い出す。

久しぶりにヴィニーに会いたくなって来ました。いつか「批判的工学主義」や「超線形プロセス」の話をしてみたい。

というわけで、濱野さんとの討議は楽しみです。じっくり難波さん(や青木さんや富永さん)への反論を組み立てたいと思いますw。

fujimura

2009年06月11日

空間とともに設計を、スケッチとともに方法論を、自己とともに他者を

9日、レモン展に参加。卒業設計の審査をさせて頂く。

卒業設計の審査は人によっていろいろなかたちがあるが、僕はいつも全体をざっと1周することにしている。全体を見渡すと傾向もよくわかるし、論理のパタンを読んで、どの案とどの案を選ぶと壇上でどんな話が出来るか、いろいろ予測するのは楽しい。

審査のとき、今年は不作だ、とか、農作物みたいにいう人もたまにいるのだが、僕はあまりそういうことを思ったことがない。面白い案は必ずある。それをどうやってピックアップして、どういう議論を作れるかは、むしろ審査する側の「眼力」の問題だと考える。

レモン展は初めて参加させて頂いたが、とても充実していた。いろいろなタレントに出会えたし、壇上での審査も勉強になった。

今回一番切れ味を感じたのは東洋大の佐伯周一さんの作品。樹木の根の形態に注目し、分析して言語を与え、再構成してみせたもの。根に注目するという着眼点の意外さ、それをきちんと再構成する論理構成の良さ、絵のうまさ等、とても素晴らしい。一見風変わりだが、こういう作品を自分の言葉で語れるかは審査員の力量がむしろ問われるし、その良さをただ「いい」と押し切るのではなく、他の審査員の先生方に「論理的に」伝え、評価を変えていく作業が一番スリリングで楽しい。

北海道大の石黒卓さんの作品も一目見てピンと来る建築としての重層性を持っていて惹かれた。スケールやボリュームといった建築的な複雑性があり、10Mグリッドを再構成するという設計の方法論があり、集合の論理を内包したような都市性がある。「設計」を地域性の再構成のために使っている。壇上で質問してもビジョンが明解だし、とても共感できる。

形がデーハーな東工大の鎌谷潤さんの作品は図書アーカイブの機能を再構成してイメージを与えたもの。スケッチは圧倒的ではあるが、示されている「設計の意味」を分析すると、提案としては少々物足りないと感じた。アーカイビングという着目点とアルファベット+時系列という整理は明解だとして、その図式を単純に表象しただけだとしたら、それって下水処理場をドラマチックに描いたことと何も変わらないじゃないかと聞くと、答えは出て来なかった。もちろん、並の4年生よりは知識が豊富で、頭のいい彼のことだから、僕の質問の意味はもちろんわかっているし、問題を冷静に把握しているはずだ。

ただ、審査員の眼力ってこんなもんだろ、と馬鹿にされているとすら感じるほどケレン味たっぷりなプレゼはなかなか役者ではあると思う。審査員として、こういうのに単純に引っかかってはいけない、と思っていたら長谷川賞。理由は「卒業設計らしくていい」とか。こういうときは案外素朴なんですね。

個人的に推したくても今ひとつ推し切れなかった作品のひとつに理科大の村田加奈子さんの作品である。理科大での講評会で当初補欠的な順位だったこの作品は、方法論についての議論を尽くした後で順位を上げ、もう少しで1位になりそうだったことを思い出す。

日本の大学で、アルゴリズム系の作品が1位を取ることはまだ少ないのではないかと思う。作家主義バリバリの昨今ではアルゴリズム=自動=意志が弱い、というイメージがまだまだ強いようだが、村田さんはそんなことまるで気にしてない風で力強い。模型表現にスケール感とかディテールが弱いのが少々残念だったが、何か確信に満ちて新しい方法を示そうとしている。

卒業設計の講評会は毎年たくさん呼んで頂くが、最近はだいたいいつも最後に「私性」か「社会性」か、という議論になり、「やっぱりその空間を経験したいかが大事だ!」という話になって、結局「やっぱり個人のイメージが大事だよね」という話に落ち着いてしまうことも多い。つまり、学生たちがナイーブなのは、それを講評する側のトーンがナイーブだからでもある。

ただ、いくら講評する側の枠組みが強固だと言え、それに立ち向かう諸兄までそのトーンにつられていては少々従順すぎやしないだろうか。それは例えば「歌舞伎」という作文のテーマを与えられて「この大事な文化を守らなければいけない」と書いてしまうようなもので、マンネリもいいところである。そういうときは「歌舞伎は大衆文化なのだから、大衆から支持されなくなったら消滅されても構わない」と書いた方が光る。そういう頭の良さというか、勘の良さも、一方では必要なのではないか。

その意味で、佐伯さんや村田さん等、今年のレモン賞の受賞作のなかでそういうベタな表現に距離を取ったクールな案が選ばれていたのは審査に参加させて頂いたものとしてとても嬉しい。そして、方法論を鮮明にした石黒さんの案が「せんだい」で日本一になったことは、新しいヒーロー像を生むのではないかと期待が膨らむ。

レモン展で再確認したのはやはり、「いいものはいい」「好きだからつくる」というセリフは、そろそろ言い尽くされている感があるということ。工学が複雑に発達した現代では、いくら「好きだから」と絵を描いても、それが現実に実現しようがないことは学生だってわかっているはず。なぜそれを作っているのかと言えば「卒業設計だから」としか思えない。その無意味さを打破するには、現代の社会状況に照らして「設計の意味」を考える、という真っ当な思考が必要なのだ。

・・・という趣旨のことを述べたら、審査委員長の富永譲さんに「なんでそんな古くさいことをいうのか」とツッコミを頂いた。確かに、富永さんらは硬直した建築論を個人の内発的なイメージで突き抜けようとした世代だ。たが今は、難波和彦さんも書かれているように、時代が一回りしたのである。今こそ、メタボリズムやアレグザンダーの時代に戻って、もう一度社会と「設計」の関係を捉える時期なのではないか。

ただし、それは「私」に対して「社会」を対峙させるのではない(ここ重要)。アトリエと組織を単純に対峙させても枠組みが違いすぎて面白くない。東浩紀さんが『建築雑誌』で書いて下さったように、人工物(=作品=アトリエ)と自然(=匿名=組織)を対立的に捉えるのではなく、一見中途半端にみえる「批判」というポジションこそが、今必要な戦略であり、そこで新しい設計組織像、新しい作家像、新しい作品像を作っていく必要があるのだ。

だから86世代の諸君!そろそろ「内部と外部の曖昧な関係」とか、「自分が住みたい」とか、終わりなのではないか。時代はとっくにアーキテクチャーとアルゴリズムのフェイズに突入しているのに、建築だけが、卒業設計だけが、いつまでも私性主義で足踏みしているのはつまらないのではないか。

今こそ「空間」とともに「設計」を、「スケッチ」とともに「方法論」を、「自己」とともに「他者」を、語ろうではないか。そうすればこのマンネリに満ちた空気は突破できるだろう。2010年以後、86世代諸兄の切れ味が問われる。

fujimura