19日、後輩の結婚式2次会@六本木。日建設計+森ビルというビッグネスカップル(?)。森ビルの人たちの威勢の良さに圧倒される。
20日、ロータリー地区大会で埼玉へ。久しぶりに壇上でスピーチ。音楽ホールらしく声がよく響いて気持ちよい。
帰り道、所沢で途中下車し、お世話になっている地元の方を訪ねる。商店街の向こうにはタワーマンションが建ち並ぶ。駅ビルの開発計画もあるそうだ。商店街からは丸井が撤退し、パチンコ屋や百円ショップ、飲み屋チェーンなど、郊外型の店舗だらけになってしまった。だんご屋の醤油の匂いが、わずかに所沢らしさを感じさせる。
22日、10:00INAX:GINZAで打ち合わせ。14:00打ち合わせ@オーノJAPAN。スタッフが増えて活気がある。オーノ氏と冗談をいいながら打ち合わせしている時間は楽しい。最も純粋で建築的な時間のひとつ。
26日、11:00雪谷の「斉藤助教授の家」(1952)へ。取り壊しが決まったそうで、見学会が行われた。行ってみると長蛇の列。整理券をもらうと「12:20のご案内です」と告げられる。
室内から見ると水平性というのは案外感じないが、外から見ると庭にすーっとのびる軒と縁側のラインが気持ちよい。
受付で配布された藤岡洋保先生の論文*1によれば、当初の設計案はより大きな平面計画だったが、厳しいコストの条件から面積が削減され、さらに既存の基礎を全面的に活用することになり、実施案のキャンチレーバーを含む非対称的な要素が生まれたのだという。
制約条件から建築の形式を抽出するのは建築設計の基本だが、制約条件を技術で味方に付けるという発想は、東工大的な思考なのかも知れない。
もっとも、制約を形態に置き換えるだけなら基礎平面と平面形状を合わせたはずで、わざわざ寝室を跳ね出したり、南側にテラスとしてはみ出させたりしたのはインターナショナルスタイルの導入という建築の潮流を読んだ上での美学的な判断があったのだろうし、清家さん独特のユーモアも感じさせる。
今見ると、近代主義と伝統の架橋、というわかりやすい目標が共有された時代がうらやましい。現代でいうと、資本主義と地域性の架橋ということになるだろうか。当時の定番的建築形態と言えば水平ラインだとすると、今はなんだろう。
事務所に戻り、住宅打ち合わせなどを経て、藤本壮介さんの書籍『原初的な未来の建築』出版記念パーティ@INAX:GINZAへ。五十嵐太郎さん、乾さんがスピーチ。ちょっと歓談し、最後に藤本さんのスピーチ。
本は模型写真のビジュアルや文字組等、グラフィックデザインの完成度が高い。コンテンツは、本人によるタイトル付きの明快な宣言文がないのが物足りない感じもするが、前後に伊東さんや五十嵐さん、藤森さんの論考や対談を挟むことで、建築家・藤本壮介第1期の集大成を感じさせる構成となっている。
二次会で青木君と、青木君の後輩K(もしくはKY)君と議論。青木君と目地の形式性の議論。「スチボーの模型通り作りたいじゃないですか」と主張するK君。それは幼児退行ではないか、などと問題提起していると藤本さんが登場し、「目地っていうのは建築の『成り立ち』なんだよ。」と一言。
藤本さんの「成り立ち」という言葉は面白い。帰宅後、改めて藤本さんと藤森さんの対談「人口の建築、自然の建築」を読むと、すーっと入ってくるところがあった。
--時間が経過していたり、大勢の人が手を加えていたりするので、自然物のような存在になりかけているように見えるんです。そういうものを建築家がつくれないものかと。(p.128)
--建築というのはすべて「つくられたもの」だけれども、それを少し超えて「できてしまったもの」のようにすることはできないかということです。すごく厳密な人工的なプロセスと、「偶然性」「曖昧さ」とが同時に立ち現れるような形式がありえるのではないかと思うのです。(p.131)
--全部を自分の思い通りにつくるのではなく、半分は設計するという人工的な作業、半分は建築の形式自身がなりたくってなっていくようななにかがあって、その相互作用のなかで現れる建築に憧れているんです。(p.132)
今まで藤本さんの言説にはなんとなく距離を感じていたけれど、最初の説明は「批判的工学主義」*2で、最後の2つは「超線形設計プロセス論」*3で主張した内容とある部分では共振する。現代的なバナキュラーから建築的形式を抽出し、再構成するという作業のイメージとしては、案外近いところもあるのかも知れない。
違うとすれば、『建築家なしの建築』のバナキュラーなものを引用する際に、藤本さんは普遍的で超時代的な「自然」を参照するが、僕は時間と文脈に即した「社会」を参照するところだろうか。
僕から見ると、1990年代にバナキュラーを参照していた建築論といえば、塚本由晴らの『メイド・イン・トーキョー』だ。しかし彼らは、そこから建築的形式を抽出し、再構成するという方向に向かわず、クリシェ(紋切り型)の抽出へと向かっている*4。
東工大的文脈で以上を整理すると、下記のようになるだろう。
清家:民家の国際様式による再構成
篠原:民家の形式性(幾何学)による再構成
坂本:民家の形式性(関係)による再構成
塚本:民家のクリシェ(紋切り)による再構成
その枠組みで藤本さんを位置づけると次のようになる。
藤本:民家の動的形式性による再構成
立場としては、後期篠原に近いといえるだろう。幾何学がより離散的で、動的なところに藤本さんのオリジナリティがある。
ただし、藤森さんは対談のなかで、以下のように忠告する。
--民家の魅力は、集団の無意識を満たしていることにあります。ああいう形が練り上げられ、成立するために、ものすごい時間をかけているからなんです。その長い時間のなかで、自然化が行われるんですね。(p.128-129)
藤本さんのいう『原初的な未来』とは、本来長い時間をかけて醸成される「集団的無意識」*5を建築的形式によって時間を圧縮し、実現することのようだ。そのことについて、藤森さんは「時間の捏造」ではないか、と執拗に問いかける。
それに対して藤本さんは「『成り立ち』としての時間のようなものを考えている」と反論するが、やや曖昧な印象。塚本さんのいう「オーセンティシティ」のようにも聞こえるが、おそらく違うといわれるだろう。
僕は習慣化し、無意識化した行為、生活のアクティビティを設計行為によって再意識化し、権力の環境化に対抗するというシナリオを描きたいと考えているが、藤本さんは意識化、明示知化することを徹底的に避けている。
そうすると、藤本さんのいう「集団的無意識」に対して、藤本さんの設計行為はいったい何を働きかけるのだろうか。いや、何も働きかけはしない、ということかも知れない。でもそれでは「集団的無意識」は単なるアナロジーになってしまうのではないか。
藤本さんはそのあたり、どう考えているのだろうか。そのうちまた聞いてみたい。
*1 藤岡洋保(2006)「『斉藤所教授の家』の設計過程」日本建築学会大会学術講演梗概集
*2 拙稿「『批判的工学主義』のミッションは何ですか?」,Ten plus one (49),94〜95, 2007 (INAX〔編〕/INAX)
*3 拙稿「超線形設計プロセス論〜新たなコンテクスチュアリズムへ〜」,Ten plus one (48),161〜166, 2007 (INAX出版)
*4 塚本研究室10周年記念パーティでの講演(2008年4月5日, 東京工業大学)
*5 ここではユングの「集合的無意識」に近い意味で使用されている
*6 最近よく議論になる私性と社会性、感性と論理というお題にはあまり広がりを感じないが、無意識と意識、あるいは暗黙知と形式知という軸を導入すると見えてくる関係性があるのかも知れない。
fujimura