帰宅して晩ご飯を食べていると、奥さんから、「ハンコンデモってのがあったんだって」と聞かされた。半婚?犯婚?と脳内変換できないで困っていると、反婚なんだという。ようは反戦と同じつくりの言葉なんだけど、結婚に反対ってこと? と考えるうちに、ますます分からなくなった。おかしな言葉だなと、まずは思う。
で、検索してみると、ありました、こんな記事。 実は、ぼくと奥さんは結婚しているのだけど、一度入籍した後でよく相談して、結局それぞれがもともと持っていた名前を使っている。よくある「仕事は旧姓、戸籍は本姓」ではなく、仕事も戸籍も本名に戻して生活している。結婚を機に名字を変更して「それまで存在しなかった人名」が出現することに、大きな違和感があったからだ。この経緯はとてもおもしろいんだけど、長くなるのでそれは省きます。 さて、自分の話はいいとして、「反婚デモ」である。ぼくたちは、この記事が不快だった。どこか、おかしい。何かがずれている。客観的に見れば、ぼくたちも既存の婚姻制度に疑問を持って、別姓を求めた結果として籍を抜いたのだから、まあ、行動としては反婚と言えなくもない。でも、この「反婚デモ」は方法として間違っているんじゃないかと思う。どうにも共感できない。 たしかに、たとえば10代で子どもを産んで女手一つで育てるのにはたいへんな苦労があったと思う。でもたぶん、その苦労と現状の婚姻制度の間には、まったく関係がない。 現在の婚姻制度には問題がある。たとえば、戸籍を一つにしなければ得られない優遇措置がいろいろとある。夫婦のどちらかが扶養という優遇制度を甘受するためには、自ずから収入に限度を設けなければならない。だから、それぞれが経済的に自立したままで関係を継続するのは不可能だ。現行制度上、夫婦はあくまでも合わせ技で一本なのだ。 でも、それは制度のデザインの問題であって、結婚の実体がそこにあるわけでは決してない。結婚生活のデザインは、自分たちで何とかしなければならない。もし自分の不遇の現況を制度に求めるとするならば、それこそが、制度を過信(盲信)し、制度に身を委ねた思考にほかならない。少なくとも、「自分たちにはこんなに良いアイデアがある」と主張しなければならないと思う(記事に載っていないだけで、叫んだのかもしれないけど)。極端な言い方だが、「子守りをしてくれる人を探しても家族制度が壁にな」るなんて主張は意味不明だし(経験上はありえない)、「友達に結婚しない生き方を理解してもらえない」のは、本人の友達の質の問題に過ぎない。つまり、社会や制度のせいではなく、あくまでも自分と社会の関わり方の問題だと捉えるべきなのだ。 検索すると、webでの評価も引っかかった。「結婚がおめでとうの社会では、非婚の人が生きづらい」という彼らの主張に対して、「進学おめでとうの社会は、浪人の人が生きづらい」「新築おめでとうの社会は、中古の人が生きづらい」ということなのか?と疑問が呈されていた。その指摘は鋭い。しかも、笑える。 だからぼくたちは、この記事を読んで次の二つの教訓をかみしめた。 ところで、別姓問題では、役所の「裁量」の幅を実感した出来事があった。ぼくたちは同じ住まいで協同して暮らすことを結婚だと考えたので、「戸籍はどうでもよいけど、住民票には何かしらの記載があってほしい」と望んでいた。すると左京区役所は続柄に「妻(未届け)」と記してくれた。もちろんわれわれへの特例ではない。一向に進まない制度改正に歯ぎしりするカップル一般に示される、役所の心意気である。これ、ロマンチックで、とっても気が利いた表現じゃありませんか? ぼくたちはとても気に入っています。 ええと、このエントリの肝は、言うまでもなく、菊竹さんの言う「もっと表現すべきです。スケッチをしなさい」であり、藤村くんが言う「かたちを発展させていく」ことの実践だということです。 yamasaki
1. 自らが被る不利益を、社会や制度のせいにしてはいけない。
2. 主張する時はかならず対案を出し、実行すべく努力する。