21日、五十嵐淳さんインタビュー@BUILDING K。冒頭から「そもそも都市なんて語る必要があるのか」「建築のことだけを考えれば良いのではないか」と逆に問われる。じっくり話を伺っていって、一致している点と異なっている点を整理していく。
一言で言えば五十嵐さんのスタンスは市場主義的、静観主義的であり、僕のそれは設計主義的、介入主義的である。もちろんどちらがいいということではなく、それぞれが自分の持つリアリティに従ってスタンスを定めていくと、たまたまそうなるということだと思う。
何が一致していて、何が一致していないかが明らかになるのが「良い議論」であるという意味で、この日は良い議論をさせて頂いた。
25日、山梨和彦さんインタビュー@日建設計。先日の建築夜楽校の続きを議論させて頂く。山梨さんは「批判的工学主義批判をしたい」とおっしゃっていたが、終わる頃には完全に共感していた。
建築夜楽校での議論でわかったことは、設計にスピードと責任が求められる現代社会においては「アトリエvs組織・ゼネコン」という規模の対立より、「設計事務所(アトリエ・組織)vs設計施工(ゼネコン)」というサービス形態の対立こそがクリティカルであるということ。すなわち、分離発注型の設計事務所か、ワンパッケージ型のゼネコンか。
ワンパッケージ型を選択するならばアトリエはデザイン監修という立場でゼネコンと組み、アイディアのみを提供すれば良く、そうすると組織設計事務所は役割を失うことになる。そのことを踏まえ、組織設計の可能性とは何か。
山梨さんは「設計施工の利点など、単に設計部と工事部の机が横にあることに過ぎない。」と言い切る。「クライアントはワン・ストップ・サービスの利便性よりも分離発注による透明性を求めている。IT等の利用によって情報共有の仕方を工夫すれば設計期間は短縮できる。」と言う。
オープン・プロセスか、ワン・パッケージか。現代の設計者は選択を迫られている。ワンパッケージ型の覇権主義に対抗し、建築家としての自立性、独立性を保ちたければプロセスをオープンにして、情報共有と作業の効率化を図るべし。神秘的な作家性に拘るなら、ゼネコンと組んで延命措置をはかるべし。そういうことなのだろう。
山梨さんと話していて、自分が「超線形プロセス」に拘るのか、その社会的なコンテクストが見えてきた。
これらは現在準備中の『ROUND ABOUT JOURNAL』vol.8(2009年1月発行)に掲載予定。この日で取材が全て終わり、残るは編集作業のみとなる。
28日、9:30東京駅。新幹線で宇都宮のSUMIKA PROJECT竣工式へ。集合時間に東京駅に着くと、歴代の新建築編集長、植田実さんなど、そうそうたるメンバーが集結している。その人ごみのなかに石上純也さん、平田晃久さんがいてほっとする。指定された席に着き、隣は誰が来るのかと思ったらなんとつかもと師。久しぶりに話す。
宇都宮駅より、バスで順番に藤森棟、西沢棟、藤本棟、伊東棟の順に回る。4者4様。もっとも建築的だと感じたのは西沢棟。「立川のハウス」以来の室内風景論は影を潜め、「板橋のハウス」以来の環境建築を追求している。ボキャブラリー、構成ともにモダニズム的で、天井がルーバーで覆われているためか住宅と言うより公共施設のようにも見える。床、壁、天井、と要素は慣習的なのだが、床に芝生が貼ってあったり、壁が建具の連続になっていたり、天井が透明だったり、と各要素のあり方が丁寧に反転しているので超慣習的な建築となっている。
藤本棟はより空間的、身体的。登ったり、潜ったり、跳んだり、なんだかアスレチックのようでもある。ここまで慣習的な要素をキャンセルしてしまうと、建築として何を手がかりに理解すればいいのかわからず戸惑いもあるが、4棟のなかでは最も刺激的な経験。
藤森棟はなんとなく絵画的で、フンデルト・ヴァッサーを思い出した。開口を極限まで絞っていたり、部分的には建築的な毒も盛り込まれているが、最もポピュラリティを感じる。
伊東棟は2002年のサーペンタイン・ギャラリーのパビリオンを木造で実現したアルゴリズム建築。木造であること、柱が4本あること、内外がはっきり区切られていること、直角や60度などリジッドな部分があり、完全なランダムではないことなどから印象はだいぶ違う。より自然になっていて、東京ガスのショールームとして違和感無く建っている。
伊東、藤本の前衛組(工学的、動物的)と藤森、西沢の後衛組(慣習的、人間的)の対比が際立っているが、2008年にこうした建築群が同時に生まれ、批評的に均衡関係を保っている状況が興味深い。
最後に伊東棟を眺めながら、隣にいた石上さんに「アルゴリズムとかやらないんですか」と聞いたら、「わからない。今はそういうプロジェクトが無いだけかも知れない」とのこと。
磯崎さん、伊東さんと来て、最後の砦となっているSANAAがアルゴリズムをやり始めたら学生たちも一斉にアルゴリズムへ傾倒するだろう。そのタイミングは秒読みという気もする。今の学部3年生くらいがターニングポイントになるだろうか。
29日、朝から横浜トリエンナーレを見て回る。新港ピア会場は巨大な一室空間の倉庫に作品単位のブースが並ぶ、モーターショー型の展示。雰囲気が楽しい。
BankARTの「URBAN COMMONS展」の会場に戻り、友人、知人のほか、国立近代美術館の保坂健二朗さん、新建築編集長の四方裕さん、新建築住宅特集の斎藤悠太さんなどご案内。
保坂さんがキュレーションした「建築が生まれるとき」展では、青木淳さんの模型が並べられていたが、いろいろ考えるところもあったので、保坂さんには見てもらいたかった。僕は「想像しない」「枝分かれしない」「戻らない」超線形プロセスによって、複雑さをどうやって設計するか、ということを考えているが、保坂さんによれば、美術は逆だと言う。複雑な事象から抽象化を繰り返して、どうやって単純化するかを考えるのだと言う。
確かに、青木さんの展示は「よって廃案」=破壊を繰り返す。構築、というよりも破壊のプロセスのように見える。そこで目指されているものは建築的複雑さと言うよりは美術的抽象性を指向しているように見えた。プロセスの意味が根本的に異なるのだ。
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URBAN COMMONS展について、web magazine "OPENERS"で紹介して頂いています。
建築家による建築による都市の再考 (OPENERS)
同じく、構造家の田畠隆志さんがレビューしてくれています。
URBAN COMMONS
なるほど、パンフレットは西田:建築的、藤村:メディア的なのに、展示や建築は逆、という指摘はその通りですね。進化論的設計プロセスが自己組織的ではなく、ダーウィン的だ、というご指摘もごもっとも。松川昌平さんにいつも指摘され、なかなか相容れないところなのだが。
「批判的工学主義」で組織とアトリエの両者を批判し、新しい設計組織像を提示しようとしているように、「超線形プロセス」では工学的なコンピュータ的思考と慣習的な人間的思考の両者を批判しようとし、新しい設計プロセス像を示そうとしている。今後、そこのところをもう少し正確に伝えていきたい。
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ここのところの議論はどれも刺激的だった。市場主義と設計主義(五十嵐淳さんとの対話)、オープン・プロセスとワン・パッケージ(山梨知彦さんとの対話)、工学的・動物的前衛と慣習的・人間的後衛(SUMIKA PROJECT)、美術的抽象性と建築的複雑性(保坂健二朗さんとの対話)、コンピュータ的思考と人間的思考(田畠隆志さんのレビュー)といった対立項のあいだで、ひとつのストーリーが生まれようとしている。
fujimura