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作家か、父親か

講評会シーズン突入。オーノさんから「リアクション芸人みたいですね」と馬鹿にされつつも、今年もいくつかの学校からお誘いを頂く。

8日、明治大学へ。2年生の設計製図最終講評会。図書館の設計。

13日、東京理科大学へ。1年生のデザイン最終講評会。「あなたの部屋を空間化せよ」という課題。どうなることかと思ったが、うまい人はうまい。

15日、関東学院大学へ。2年生のデザインスタジオ2の最終講評会。リサーチをベースにデザインを展開するスタイル。厳しい講評が続くが、そもそも正解のない非常に難しい課題で、このような講評をしていて学生は救われるだろうかと不安になりながら話す。

終了後はレクチャーもさせて頂いた。話し終えて、少しほっとした。
敵は工学・工学版(石川初さんのブログ)

17日、慶応大学へ。デザイン言語ワークショップの最終講評会。毎年恒例となりつつある。柄沢さん、田中さんに加え、今年は西澤徹夫さんも一緒に。

前回以前の受講者や理科大での受講者も来ていたので、総括討議のテーマは「そもそもこの授業の意義は何か」。とても盛り上がり、学生を交えた打ち上げはなかなか楽しかった。

毎度のことながら、学生の評価はいつも悩ましい。迫力や批評性はあるが課題の設定や建築としての納まりを逸脱している学生と、きちんと計画し納まっている学生のどちらを評価するべきか。アトリエと組織の社会的評価みたいなものだろうか。

ある大学でご一緒したある方は「できる子は叩き、できない子は誉めればいい。子育てと一緒だ」とおっしゃっていた。自分のスタンスはどちらかというと逆で、共感できるものは率直に賛同し、納得いかないものは容赦なく異議を唱えるべきだと思ってきた。

教師には作家型と父親型があるなと思う。伝統があったり、有名なプロフェッサー・アーキテクトがいる学校だと前者の傾向が強く、一般的な大学や低学年の教育では後者の傾向が強いのかも知れない。自分は知らず知らずのうちに作家型クリティークをしている。

作家型教育はある種の格差社会をつくる。評価されれば自信を得て自己実現して行くし、されなければ建築が徹底的に嫌いになり、建築家なる存在に恨みを抱いてしまう人もいる。

父親型教育はある種の平均的社会をつくる。落ちこぼれを生まないが、実力がある子のやる気を削いでしまう。

学部時代所属していた社会工学科の課題は典型的な父親型教育だった。エネルギーを注いでいるのに、なぜか怒られる。しかもまともな理由がない。かわりに評価されるのはおとなしく、そつなくまとめた人。当時は自分の性格の問題だと思っていたが、今考えれば、教育の性格の問題だったとも思える。

他方、大学院から所属した建築学専攻では、学生はやたらとナルシスティックで、プライドが高かった。所属してさえいれば伝統やジャーナリズムと接続できるからだ。ただ、思いっきり作家として学べる環境なのに、なぜか建築が嫌いになる人も多かった。今考えれば、いいと悪いしかない世界だから、評価されなければふてくされるしかなかったのかも知れない。

作家型か、父親型か。やる気のある人を伸ばして、落伍者を出さないようにケアもできるような授業はできないのだろうか。一見矛盾するが、それを実現しなければ、やる気のある人は伸びないし、建築に半ば恨みに似た感情を抱く人は減らない。

理科大の講評会の最後に小嶋一浩さんが言っていた「全員が建築家になるとは限らないけれど、建築のファンでいて欲しい」という言葉が妙に印象的だった。

「建築」を「社会」に置き換えてみれば、政治の課題に似ている。作家型と父親型は、新自由主義と社会民主主義みたいなものだ。ギデンズの『第3の道』みたいな、新しい方法はないだろうか。

今年はいくつか非常勤をやらせて頂くので、しばらくそのあたりことを考えたいと思う。
fujimura

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2009年01月17日 01:28に投稿されたエントリーのページです。

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