『1995年以後』というタイトルについてはいろいろなことを言えるが、読めば誰でも分かるように、誰もが1995年以後「について」語っているわけではない。1995年以後の状況について強烈に認識している一人の(一人じゃないけど)インタビュアーが、執拗に問いかけることに終始している。
僕は、その枠組みと執拗さが、編集的な効果をもたらしていると思う。つまり、ばらばらになりがちな各々の語りと、ただでさえあいまいになりがちな語り言葉そのものが、その執拗さの一点においてぎゅっと集約されているという意味だ。その編集的な効果が「建築家カタログ」となることをきっぱりと拒絶している。 だから万が一、「これは便利なカタログだ」と読まれるとすれば、それは好ましい読み方ではないなと著者の一員として思う。もちろん、そういった読み方を拒否することはできないけど。でも、どうやったらそう読まれないようにつくれたのだろうか、と、やはり考えてしまう。 ついでに言うと、書籍に登場する32(+1)組のインタビュイーは、誰もが同じ話をしているわけではない。読めばわかることだが、決してそうではない。だから、こんなことは言うまでもないけれど、誰もが思想的な共感を根拠に誰もが参加しているはずがないし、それで当然だと思う。むしろ違うからこそ議論に応じていると言っても過言ではないだろう。 さらについでに言うと、著者側の「TEAM」についても、32(+1)組の集まった姿を見ても、「仲が良い」「つるんでいる」と誤解する向きもあるそうだが、それはそう誤解する人の行動原理を反映しているに過ぎないのではないか。みな、ギリギリのところで言葉を紡いでいる。真剣勝負の仕事人同士が「仲良しだから集まる」はずがないと思うのは、僕だけだろうか。 それと、僕自身の心づもりを正直に言ってしまうと、ある特定の年代で社会のすべてが変わったと語ってしまうことには多少の違和感がある。もちろん、1995年はある特権的な、語るに足りる年代だとは思う。でも、社会学を多少でもかじった人間からすると、そうやってある断絶を歴史に対して施すようなやり方は、かなり勇気がいる。1994年や1996年への想像力を忘れないようにしたい。 『1995年以後』が成功しているのは、「あえて特定の年代で語る」というフレームの提示が、話者にとって新しい言葉を引き出すことに成功した点にある。その意味で、僕が「多少の違和感がある」と言えるのも、1995年というフレームがあるからこそ発言できるのであって、その違和感を根拠に何かを提示すればいいだけの話だ。それが、形式というものの、強みだと思う。 ただし、その形式性をもってこの本を世代論だと断ずるのは、やや読みを誤っているのではないかと、やはり著者の一人としては思う。ある年齢の人たちが集まったからといって、それを即世代論だと読み替えたり、あるいはそう読み替えようとする感覚には、どこか間違った部分があると思う。
yamasaki