8日は「デザインの部屋」。話しながら考えていたのは、dezain.netが、岡田さん自身がデザインした「プロダクトデザイン」であるということだ。岡田さんは「クリックできること」と「リンク先に飛んでいけること」という可能性を最大限に引き延ばし、「たくさんクリックできるサイトをつくった」のだという。それは、特定の工学的条件のもとにものの形を考え抜く、プロダクトデザインのつくり方と同じなのではないか。岡田さんはderollでもribbonでもプロデュースに徹しているので(もちろんそれを広義のデザインと呼ぶことは可能だが)、本人が直接デザインしたと言えるのは、実はdezain.netだけだと思う。ということで、岡田さんはウェブのプロダクトデザインとしてdezain.netをつくり出したのだ、というのが結論。それと、昨年協力させていただいた「日本史」がなぜプロダクトデザインのクオリティでつくられたのかという疑問を、いつか岡田さんにちゃんと聞いてみたい。最近、LED化した信号機のデザインのありように苛立つことしきりなので、プロダクトデザインというものについてもっと考えてみたいのだ。ROUNDABOUTの活動も、プロトタイプではなく、プロダクトデザインの精度を目指すべきだろうと考えた。
以下は、LRAJ2009から一連の出来事を通じての雑感です。まず、あらためて、「議論を開く/閉じる」問題には論じる意味を見出しにくいと思った。また、LRAJやフリペのPDFを要求されたらはっきり拒否しようと決めた。フリペのコピーをする、質問に答える、あるいはどこかでまとめる機会を持つ。僕はまだ、それ以外に公開性を保つ方法が思いつかない。完成までの(してからも)関係者の苦労を思うと、PDFをもって「公開性」を云々する人のことは信じがたくもある。ただし、たとえばLRAJを録画してすべてYouTubeにアップして、それを見知らぬ誰かが文字起こしして、RAJとまったく異なるメディアが生み出されたら、それはかなり面白い。もしテクノロジカルな意味で「開かれる」ことがあるとすれば、そういうことではないか。 他に『1995年以後』についても「相手と藤村氏との間に断絶がある」と書かれたレビューを読んだけど、仮に「言葉が通じない状況」があるとしても、それは当然のことなので、批判の論点にはなりえないと僕は思う。主義主張の賛同者を募るための行動は、議論ではなく説得であり、原理原則への同意を求めるのならば、それは宗教だ。むしろ問いの共有がなされていない状況=断絶が明らかになった時に(けっこう多い)、そこから何を考えていけるのかと思考を進めるのが、まっとうな議論の方法論だと思う。読書の経験も、本来はそういった形式(読み手が、書かれた内容と対話する)で深められるのではないか。だから、当然いろいろな意味で時間がかかる。 そういえば以前、岡田さんにこんなことを言われた。「言葉は通じることの方が奇跡的だ」と。僕もそう思う。だからこそ、議論の場で「ある問いの共有」が到来するように心と言葉を砕くのではないか。こんなこともあった。先月のアーキフォーラムの二次会で西沢立衛さんとお話しして、言葉についてどう考えるのかと質問した折に、西沢さんに「言葉って通じますよね。それって人類最大の発明じゃないですか」と言われた。僕はまさにこの発言こそが岡田さんの発言とまったく同じ平面にあると分かり、感動した。
yamasaki