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青木淳さんと対談/青井研と議論/東工大学生インタビュー

青木淳さんと対談させて頂きました。

青木淳さん 来訪(BUILDING M 日記)

「建築が生まれるとき」展でレビューを書かせて頂いたこともあり、一度設計プロセスについてじっくりお話させて頂きたいと思っていました。ありがたいことに、青木さんも昨年の私と西田さんの展覧会「URBAN COMMONS展」を見て下さっていたのだのだそうです。14日にBUILDING Kをご案内させて頂き、29日、対談が実現しました。

興味深い論点はたくさんありましたが、設計に対する理解やスタンスがことごとく逆でした。

例えば、僕はバラバラになりそうなアイディアをまとめ、単純な形態を複雑なものに「構築」するのが設計だと主張しているのに対し、青木さんは硬直しそうになるスキームを「破壊」して柔軟にさせることが設計だという。僕はコンペであろうともコミッションのように考えたいと思っているのに対し、青木さんはコミッションであろうとコンペのように考えたいという。僕が変数が増えれば増えるほど建築が豊かになると考えているのに対し、青木さんは変数が増えるほどポピュリズムに陥り、凡庸になると考えているという。僕が合意形成のプロセスに建築の最も重要な意味があると考えているのに対し、青木さんは見たことがないものをつくることに建築の意味を見ているという。

最初から最後まで、暗黙知と形式知の関係をめぐって議論させて頂きましたが、経験を積めば方法から自由になれるのだよ、と諭されるような場面もありました(まあ、いつものパターンですが)。難波さんのときと同じく、情報化の問題と集合知の問題を考えると必ずしも経験だけに還元できないのではないかと反論を試みる。

スリリングな議論で、あっという間に2時間以上経っていました。貴重な時間を頂いたことを感謝します。

24日、明治大学の青井哲人さんと研究室の皆さんがBUILDING Kに見学に来て下さいました。

アヒル・ヴァナキュラー・テイストといったところがキーワードでしょうか(akihito aoi’s blog)
高円寺・阿佐ヶ谷 建築巡りツアー(Architectural Creation Garage)
建築を濃くする-BUILDING Kを見学して-(青井研ブログ 石榑督和)

学生諸兄のコメントもなかなか生意気でいいですが、青井さんのコメントはとても参考になりました。

以下、引用。

お会いする前の勝手な予見はこんな感じ → 彼の師匠でもある塚本氏はドゥルーズ的、対して藤村氏はデリダ的。

塚本:現象としてのトーキョーの海に手を突っ込んでぐいと直接に強い変異体を掴み出してそれを一般解(の候補)と言い切ってみせるようなところがある
藤村:現象を生み出しているあらゆる基底的諸元を手許に並べてスタディを徹底する作業のなかから内破的にズレを導こうとしている。どことなくネガティブな回路の不可避性、手続きの自動性などがアイロニカルに言われているのではないかと思わせるところがある。

以上が先入観だそうです。以後は実際にご案内し、議論させて頂いた後の感想。

藤村さんの方法の重要なところは、設備、構造、法規、周辺環境、採算性、その他諸々の諸元にヒエラルキーを与えず、むしろそれらをレヴィ・ストロースが言う「資材」のように見ているフシがあること。つまり、疑いようのない結合を果たしてしまっている(ように見える)諸元を、いったんほどいて独立に働きうるようにしておいて(つまり色んな潜在的結びつきをもった資材性の状態へと差し戻して)、互いの組み合せの可能性をいろいろ試す。で、面白いと思うものを育てる。

「テキストから想像してたのと違ってかなり明るくて開放的」だそうです。なるほど。よく藤本壮介さんにも「顔写真が良くない」と言われますが、ナルシスティックでアイロニカルな感じに見えるわけですね。

けれどブリコラージュと違うのは、あくまで諸元のインテグレートを目指すこと。その意味でやはりエンジニア(的デザイナー)。むしろ中途半端なエンジニアリングの眠った可能性を推し拡げようとする純正モダニストでもある。

そうですね。メガストラクチャーとか、テンション構造とか、人工地盤とか大好きなので。

ところが面白いのは、出来上がったものが工学ヴァナキュラー的であること。つまりこれまで“あちら”にあずけていた諸元を可能なかぎり意識化して“こちら”へ引きずり出し、分析的に処理して再統合しているのに、出来上がりは無意識的に生み出されている周囲の風景に擬されている。これはフィニッシュだけの問題として済ませられそうになく、設計の過程で終始そういう方向付けがなされていると考えるべき。

そうですね。設計の最初期から隣のビルみたいに作ろう、という方向付けがありました。何気ない雑居ビルが一番クールだと思っていたので。

スクールの問題とも絡むが、藤村さんにはやはりヴァナキュラーの側に立つのが普遍的たりうるという思想(イデオロギー)が垣間見える(ポストモダンぽくてもこれはモダニスト的で、ある種ユートピアン的だが、それが生産的なプラグマティズムと同居しているところが藤村さんの特徴かな)。

ローコストで、効率が良くて、風景に馴染んでいる。それが濃密な建築をつくる条件になっている。それだけで十分ではないかと。「コアを表現する」とか、「細い柱を表現する」とか、建築家にとって大事でも、建築にとってはどうでもよいことである(と設計時は特にそう思っていた)。

案内を始めたときは雨でしたが、次第に晴天に。屋上で、青井研の学生たちと議論。こちらの意図が多少でも多く伝わったのであれば良かったです。

議論しながら「批判的工学主義」と「工学主義的バナキュラー」の関係がうまく伝えられていないということがよくわかりました。

1.「批判的工学主義」は建築家が社会にどういう立ち位置を取るか、という普遍的な理論。
2.「超線形プロセス」は藤村が「批判的工学主義」を全うするために実践している個人的な方法論。
3.「工学的バナキュラー」な意匠は「批判的工学主義」を全うするために藤村が適用したテイスト。

宮地が言う「もっと表現的でもいい」というのはもっともです。ビジネスとかサービスとして成立するのであれば、できるだけ表現的な方がいいとは僕も思います。

というか、誰も表現を封印するべき、などとは言っていない。むしろ、効率がいいから、コストがないからという理由で形骸化した合理主義に陥ってデコレイテッド・シェッドを量産している立場を批判し、同じ条件でもこれだけのことが出来るじゃないか、なせやらないのだ、建築の可能性を活かそうではないか、という建設的な主張をしているつもりです。

青井さんが示唆されている通り、その意思をもっと「明るく」表現するべきなのかも知れませんね。

ブログで感想を頂いた青井さん、宮地さん、石榑さん、とても勉強になりました。どうもありがとうございました。

29日夜、東工大の鎌谷、山道、坂根、乾谷が来社。卒業設計展にあわせて、フリーペーパーをつくるのだそうで、インタビューを受けました。

卒業設計を終え、それぞれ充実したM1ライフを送っている模様。初めて彼らに会ったのは彼らが学部の1年とか2年とかの頃で、随分前のような気がするが、まだM1かとも思う。

その頃は「批判的工学主義」も「超線形プロセス」も「BUILDING K」も、まるでなかった。全部一緒に作ってもらったようなもので、付き合ってくれた彼らには感謝しています。

7月に展覧会とトークイベントをやるらしいので、86世代の諸兄は期待していていいのでは。

fujimura

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2009年05月31日 00:53に投稿されたエントリーのページです。

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