18日、首都大スタジオ(3年生)最終エスキス完了。13:00に始めて、猪熊さんと手分けしつつ、終わったら22:30であった。さすがにフラフラで帰りの京王線で終点に着いても立ち上がれないほどだったが、「プロセスがメイン」「全員が主役」とスローガンに掲げる以上、最後くらいは仕方がない。体は芯から疲れるが、講評の時間はとても充実しており、やっていて全く飽きない。
「Do NOT Think」と言っているのに、最後の方は「考えて」しまい、「考えたんですけど、違うなと思って」という学生が何人かいた。よくよく聞いていくとそうする理由は「アドバイスに従いたくない」というただの自意識でしかない。そういう学生の案は自意識が邪魔をして飛躍できていないことが多い。逆に自意識から自由になって機械的な作業に徹することが出来た人はどんどん進化している。
最終エスキスは、プロセスのログを辿り、論理手続きの矛盾点を探し当て修正しつつ、ヒストリーのなかで発見された主題を確認し、それが建築表現の中心と一致しているかどうかを確認する作業である。評価基準は(1)論理的な手続きによって得られた形態の「意味」が獲得できているか、(2)その内容は適切か、および(3)その建築的表現は的確か、の3点に集約される。
ざっと見たところ、(1)が出来ている人は1/2、(2)はさらにその1/2、(3)まで達している学生はさらにその1/2くらいという感触。
機械的、といっても成果物の方向性はほどよく分散しており、中心の取り方で5,6タイプといったところ。提出後の分析が楽しみ。
19日、理科大藤村ユニット(4年生)エスキス。構造家の大野博史さんにゲストに来てもらい、中間講評、というか構造打ち合わせ。首都大が70名近いのに対し、こちらは7名なのでじっくり出来る。ボリュームスタディで出て来た空間のイメージをもとに、構造的な検討をしてもらう。前回の打ち合わせでとりあえず構造を考えて入れてくるように指示したのだが、「柱の入れ方がわからない」と言って手が止まった学生が数名。「わからない」という学生に聞いてみると打ち合わせの内容を無視して別の内容を「考えた」り、欠席したりして論理的手続きの反復を怠ったことに原因があった。プロセスに乗って淡々と模型を作って来た人は、それをもとに議論できるのでどんどん先に進む。
検討の結果、マエダ:L字ダブル型、イマモト:コア+キャンチ型、ハリカイ:純ラーメン型、キムラ:L字コア+メジャーマイナー型、カワイ:扇ブレース型、ヨシモト:田の字型、ゲンダ:ブレース+ランダムコア型となった。バリエーションが少ないようで案外あるものである。「考えるな」と言っても、それは論理的手続きを徹底せよ、という意味で、手続きが個性を浮かび上がらせていく。それが工学的想像力、工学的作家性というものだろう。
例えば、構造形式だけでも敷地の読み方、プログラムの取り方がわかる。今回の敷地は「角地」で、「変型多角形」で、「背後は5階程度まで建て込んでいる」という特徴がある。それをどう捉えるかを考えて行くだけで、十分に個性が出る。
それにしても、基本設計でエンジニアとともに打ち合わせする時間は本当に楽しい。この時間のために建築家をやっているようなもの、と言ったら言い過ぎだろうか。理科大の学生諸兄にもこの楽しさは伝わったと思う。
終了後、くれぐれも「考えるな」と伝える。「超線形プロセス」とは、「男に二言はないプロセス」なのである。でもそれは何も特殊なのではなく、他人と意思決定を進める以上当然のことであるが、学生のほとんどはエスキスで話したことは無視しても良いと思っている。打ち合わせにメモを持参せよ、あいまいなことはその場で決めなければいけない、今日決めたことは次週きちんと踏襲しなければならないと教える。逆に言うと、建築学科の4年生が、そんなことも知らないということである。
施主とは、言われたことをやらないと怒り、言われたことしかやらないと怒る人物である。そういう人物と対話しながら設計作業を進める建築家とは、言われたことに従いつつ、想像力を膨らませる訓練をしなければならない。それを一言で言うと「線形であり、線形を超える」=超線形ということである。
去年から大学で教え始めて、建築学科の学生が、面積を満たすことを知らず、家具の寸法を知らず、構造の取り方を知らず、家具の向きを知らず、図面の描き方を知らないという事実が単純に興味深い。現状のデザイン教育がいかに構想力、表現力重視で分析力、構築力を軽視しているかがわかる。現状、面積や寸法、構造、家具、図面の描き方をどこで習うのかと言えば、実務だということになる。教育と実務の断絶はなかなか根深い。
他方、最初はだらしなかったのに、面積や構造など、より実務的な条件を与えていくにしたがって徐々にやる気を出し始めている学生もいる。「超線形プロセス」は、表現よりも分析が得意な学生はむしろ構想力を発揮できるスタイルかも知れない。そしてそのほうが複雑な課題に対して有効であることは言うまでもない。
また、学生はメディアに影響を受けているようで必要な情報がまるで伝わっていないのも興味深い。例えば首都大では誰もアトリエワンの「ハウスアサマ」(2000)を知らなかった。理科大ではSANAAの「マルチメディア工房」(1995)も知らなかった。写真を見ると思い出すらしいのだが、細かいところ、というかタイトルすらみていないようだ。
つまるところ、学生というは適当にウェブと雑誌(の画像)を流し読みし、うまくコラージュしているだけなのかも知れない。どうりで図面には洗濯物と植物しか描いていないはずだ。その果てが卒業設計でお城を作ったり手紙を読んだりしているということなのだ。自分もかつてそうだったから何とも言えないが、だからこそ改善する方法も提案できる気がする。
さしあたっては、6/1の首都大での最終講評会が楽しみである。「設計プロセスを設計する」と言っているからには、新しい講評会のスタイルを提示したい。
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FLAT前代表の森田恭平君のサイト「culstu」にて、インタビューが公開されています。
森田君は3月の東海地区卒業設計展dipcolleで仕切っていた人物で、現在はロンドンに滞在中だそうです。『1995年以後』を読んで、インタビューしたくなったとのこと。興味を持って実際にインタビューに来たのは初めてだったので喜んで受けさせて頂きました。
「三河」という郊外的コンテクストで建築家は必要か、真剣に問いかけてくれました。学部生レベルでも、「批判的工学主義」も徐々に浸透していくといいですね。
ROUNDABOUT JOURNAL配布協力者、徐々に応募が集まり始めています。相変わらず北の方からの反応が少ないですが、奮ってご応募を。
fujimura