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2009年06月 アーカイブ

2009年06月04日

ROUNDABOUT JOURNAL vol.8 全国展開!!

配布協力者の皆さんのご協力を得て、各地で配布を行っています。レビュー執筆のご連絡を頂いたものを、ここにリンクし、公開致します。

ROUNDABOUT JOURNAL vol.8レビュー(Atelier Spike)

ただ一方的に情報を受け取る状況を嘆く、もしくは傍観するのではなく、主体的にその状況にコミットし環境を変えようとするTEAM ROUNDABOUTの姿勢は共感を禁じ得ないし、これからの展開を考えると期待に胸が躍る思いだ。

新潟から発信する建築サークル「Shin」のメンバー。熱いレビューをありがとうございます。ブログをベースにポータルサイトを構築してるところがユニークですね。今後の盛り上がりに期待しています。

ROUNDABOUT JOURNAL vol.8レビュー(03.コノトコロハ)

このフリーペーパーこそコミュニケーションアーキテクチャであり、公共空間的デザインを行っていて、存在意義としてとても高いと個人的に思う。まずは多くの人に立ち止まってもらい意識的に参加してもらえることを願っている。

今年4月からローカルのラジオで「建築家の仕事をもっと知ってもらう」という趣旨でインタビュー活動をされているそうです。いつか機会があればお話を伺ってみたいですね。今治市周辺のたくさんの場所で配布して下さいました。

ROUNDABOUT JOURNAL vol.8レビュー&滋賀県の配布場所(medium-small)

「方法論としてのプロセス」とは方法論であり、「「デザインする状況」のデザイン」ではなく「デザインする状況」ではないか。それは上流でも下流でもなくデザインの中流ど真ん中ではないだろうか。方法論や手法も重要な主題ではあるが、「方法論としてのプロセス」までのプロセス(「デザインの上流」のデザイン、「デザインする状況」のデザイン)に対してのアプローチも同時に考えていかなくてはならない主題であるはずである。

じっくり読んで下さっていますが、この部分には少々誤解があるのではないかと思います。恐らく、私たちやdot architects、井手健一郎さんらの言いたいことは、「方法論を提示することが『デザインする状況のデザイン』である」という認識なのではないか。単なる自分たちの手のうちの話をしているのではない、ということを伝えたいですね。

ROUNDABOUT JOURNAL vol.8 review !

最終的に自分が好きだからという建築に終結するほうが、シンプルでやりやすいってのがあるから、今すごくそういう手法が多いのだと思います。こう言う自分も含めて。だからこそ、五十嵐さんの、法規やマーケットとか社会的な環境といった日々動いていくものよりも、気候というほぼ不変に近い環境を考えるべきというお話に共感できたけど、一方で、藤村さんの言われていることもすごく気になる。

気持ちをストレートに書ける人で、説得力がありますね。ただ、最近の講演会のリアクションとかを見ていると、「五十嵐さんに共感するけれど、藤村の言うことは気になる」という程度には関心を持っている人が、考えを変えて「共感する」というレベルにまで変わっていく人もいます。もっといろいろな場所に出かけていって、きちんと講演したいですね。

『ROUNDABOUT JOURNAL vol.8 “マイ・アイデンティティ”』(カブハウス)

K:この号の中にも藤村龍至さんのそういう発言があるんやけど、“関西の建築家・デザイナーに対する共感”みたいな部分、客観的にどう思う?
A:関西に住むものとしてはうれしいけど、柳原さんや山崎亮さんやdotの家成さんなんかのある時期の議論の場を経験されてきた方々と偶然にも共通認識を持ってしまってたっていうだけかもしれんし。

柳原さんや山崎さんやdotだけが「関西」じゃねえぞ、という抗議!? 実際にそういう声もあるのだとは思いますが、それよりも新しい議論を起こし、方法論を立て、立場を表明して社会に向けてメッセージを発する彼らに共感するからこそ、耳を傾け、意見交換し、コラボレーションしていくことのほうがよっぽど重要だと感じています。

ROUNDABOUT JOURNAL vol.8 謝辞&レビュー 完成版(Torepe)

全文読んでみての感想は一言で言えば大きな渦ができていると感じたことだ。この情報化社会に逆境するかのように紙媒体のフリーペーパーが持つ力もとても大きなものに感じることができた。配る側がいて、それをもらっていく側がいる。特になにをしたでもなく、ただ配布協力者としていたのだけれどもそれでも、たった数日で無くなるのをみるとなんだかうれしく感じた。人の力、学生の力、建築の力っていうのはまだまだ想像できないほど大きなものなのかもしれない。

まるで僕らの意図を代弁してくれるかのようなレビューです。嬉しいですね。大きな渦、みんなで作っていきましょう。

今回の募集は、レビュー執筆という条件をつけたにもかかわらず、多数のご応募を頂くことが出来ました。そして、応募者の大多数が関西地区、という結果になりました。昨年から今年に掛けて議論を集中的に投下した成果!?が出ていますね。

これにてROUNDABOUT JOURNAL vol.8の公式な配布は終了となります。ご協力頂いた皆さん、どうもありがとうございました!!

fujimura

2009年06月07日

「メディア的ふるまい」の時代

 5月16日、藤崎圭一郎さんと岡田栄造さんのトークショーを見に東京に行った。直前まで悩んだけど、しかし、藤崎さんのブログにただしく当てられてしまったからには、聞き逃す訳にはいかない。  当日の様子はすでに多くの参加者がブログにupしているし、先日も加藤孝司さんが的確なレビュー(告白)を掲載されていた。この日の議論は日を改めて継続されるとも聞いている。僕自身もこの日のことは、京都に戻ってから何度も書き直している。でもどうもすんなり書けない。うまく消化できていないし、たぶんまだ僕自身が語るべき言葉を持っていないのだなきっと。

 トークで印象に残ったのは、まず藤崎さんの編集者としての自覚と自信だ。たとえば、藤崎さんは批評(ジャーナリズム)の役割について、こう語っていた。「見方ノノというと視覚だけになっちゃうからそうは言いません。見方ではなく、感じ方そのものを変えること、変えることができると示すことが批評の役割ではないか」と。見方と感じ方。同じようでいて全然違うこの二つの言葉を即座に言い換えて、観客の認識を180度変えてしまう。これは極めて編集者的な集中力を伴う判断だと思う。
それと、これは「やはり」というべきなのだけど、藤崎さんは「書くことはデザインじゃない」という趣旨の発言をされていた。何かをデザインするつもりで書いているのか、という質問に対しての返答だ。「そう言いたいのならば言えばいいけど、書くことは書くこと。デザインではない」。「ばっさり」と質問が切り落とされた音が聞こえた。原理主義的に聞こえるがたしかにそれはそうだ。ただ、シンプルすぎて実行するのが難しいだけだ。

 ところで、この日のお二人の発言に見出しを付けるならば、「批評で世界を変える」となるだろうか? それは、ある意味でこの日の対話を象徴しているし、あるいはまったく言い当てていないとも言える。
 こう思った。批評的な行為に何か好ましい特徴を見出だすとすれば、それは、あるデザインについて個人の持つ感情・理解に言語で肉薄することを、執筆者が「覚悟できてしまう点」にあるのではないか。覚悟から踏み切りまでの助走距離の長短は人それぞれだろうが、「よし、いっちょ書くぞ/言うぞ」と積極的に思い切ることができること。しかも、誰も読んだことのない文章を生むという結果があり得るとすれば、これは挑戦的な仕事だ。
 今回、メディアに関連して確認しておきたいのは、藤崎さんの口から、批評(テキスト)を掲載するメディアなら、それもインディペンデントなスモールメディアならば世界を変えられるかもしれないという主旨の発言があったことだ。もちろん日記でも書かれている。
 テキスト(批評)は、たとえばウェブを介せば今や誰でも(僕でも)発信できる。それはそれでいいだろう。しかし、「発信欲」が欲求不満を起こしてショートする可能性は、ネット系メディアが過渡期を迎えたかに見える現在、かえって高まっているのではないかとも思う。
 メディアを媒介することで初めて、批評は「言葉が届く相手」を獲得する。正確に言うと、獲得する可能性を持つ。そんなことは当たり前だと、あるいは思われるだろう(僕も思う)。しかし、何かを媒介とすることがなぜ価値を持ちうるのかを同時に考え続けることなくして、その「価値」そのものをメンテナンスしたり、更新したりなどできない。メディアが世界を変えるとしても、その変えるべき世界のありようを考えることなくして、また、そこでメディアの存在が働きかける効果のようなもの(それを仮に「メディア的ふるまい」と呼んでみる)を考えること浮ことなくして、メディアを発生させることなどありえないのではないか。
 だから、今藤崎さんがスモールメディアを持つこと(あるいはそうであること)の意味を執拗に問うていることそのものを、読者でもある僕は真剣に考えたい。かかわる物事すべてが持ちうる「メディア的ふるまい」の内実を考えながら。

yamasaki

20世紀の編集者

 5月の連休でお会いした絶版書房の石山修武さんは、今年中に発行するどこかの号で達成したい「ある部数」を口にしていた。内容(100%石山)と形式(直筆ドローイングの描き込み)の新しさを踏み越えて、いよいよ部数面で事件を起こすつもりらしい。確信犯的にその部数を突破することが当初からの目的の一つだったのだろう。もちろん絶版書房が出版社として独立するというわけではないが、「ある許容範囲」からはみ出す部数である。既存の専門書系出版社は、いよいよあわてるのではないだろうか。

 さて、ひとつ前のエントリの続きだが、16日の議論を起点として、編集者(あるいはその役割を担う人)とジャーナリストはやはり違う役割だと再確認できた。同一人物が両者を兼ねるケースは山ほどあるが、おおざっぱに仕事を分ければ、編集者はメディアをつくり、ジャーナリストは参加する。メディアを媒介に、両者と、取材対象が共存して、読者のいる「世界」に到達する。編集者とジャーナリストが協同しなければ、批評的なメディアは成立しない。うん、当たり前すぎて叱られかねないほど自明の事実だ。
 その上で、編集行為はどこかデザイン的であるとも思う。しかし、それは表現面での新しさを指すものではない。たとえば、日本語という言語の構造と、印刷、製本という制作条件を極限まで磨き上げた文庫本という形式がある。文庫本に特徴的な形式を遵守する中で(あるいは遵守することで)、文章の順序や表現がデザインされたものだってあるはずだ。それにしても、藤崎さんが「書くことはデザイン行為ではない(デザインとは呼べない)」と語ったことは印象深く、忘れがたい。

 忘れないうちに立ち戻って考えたいのが、すでに重要な位置を占めている、存在感のあるメディア(この場合はジャンルではなくて固有名としての)の将来像である。以前岡田さんとお話した時に、「今ある雑誌の機能の大部分は、ウェブに移行しても何ら問題ないと思う」と断言されたことがあった。同時期に、別のよく知る編集者からは「『新建築』はそのままウェブになっても問題なく運営できるのではないか」と言われて驚いた。確かに、完璧な写真アーカイブ運営のシステムを構築して、広告収入を確保しつつ、新規の建物をウェブで紹介する時代が来たっておかしくない(ないだろうけど)。ある意味、「1次情報だけが残るのではないか」と建築雑誌で書いた平塚桂さんの論考にも重なる。しかし印刷物というプロダクトが持つ物質的な特徴と、日本という社会的の特殊性を考えれば、新建築が紙じゃなくなるなどということは、単に荒唐無稽な話なのだけれど。
 もちろん、藤崎さんが言うように、雑誌媒体には「雑誌ならではの快楽」がある。触った感じ、持った感じ、読む感じ。好きなところで折ったりめくったり破ったり、それをどこかにスクラップして自分流に編集しなおしたり。同じ紙媒体であっても、書籍の硬質な物質感とは異なる。そういったプロダクトとしての雑誌デザインの可能性を突き詰めて、ぐっと押し広げるような仕事が今後もあっていいはずだ。「日本史」展がプロダクトデザインの領域を思い切り拡張したように。「クリック」の快感と「リンク」の脈絡のなさという、ウェブのプロダクト的特徴と、「やりたいこと」を最大限にマッチさせたdezain.netのように。

 デザインされていないメディアはたしかに少なくない。しかし、形式面でいくら発明のあるメディアであっても、即編集的に優れたものだとは限らない。このあたりは、「『細い柱を表現する』とか、建築家にとって大事でも、建築にとってはどうでもよいことである」と断言する藤村くんの態度に、あるいは似ているかもしれない。言うまでもなく、柱を細くすることよりも、細くした柱で何をするのかが大事なのだ。
 ついでながら、雑誌はメディアだが、メディアだからといって雑誌を指すわけではない。言うまでもなく、書籍もウェブも(イベントもフリーペーパーも)メディアだ。
 つまり、形式の新しさは編集者にとっては重要だが、印刷物にとって意味ある新しさかどうかは分からない。むしろ、過去のものも含めて、発明した形式をどのように活用するかが、編集者のセンスの見せ所なのだろう。建築家が壁の建て方から逃れることができないように。これはおそらく、20世紀の編集者がとってきた態度と変わらないのかもしれない。違うのは、さらに新しいものをつくろうとしているかどうか。それだけだと思う。

yamasaki

その形態を「建築」にするもの 首都大スタジオを終えて

1日、首都大学東京の授業、最終講評会がありました。

首都大学東京「建築デザイン1」最終講評会(BUILDING M 日記)

早速、ブロガー諸兄のエントリが上がっております。

住宅の設計プロセスを設計する-住宅課題・出題者=藤村龍至(ARCHI BLOG)
住宅課題−講評会・議論(ARCHI BLOG)
they're playing the song of the century(post_tokyo)

最終講評会はコンセプチュアルな授業のラストにふさわしい、コンセプチュアルな進行を考えた。

(1)作品講評は成果物を類型毎にグループ化し、比較しながら行う
(2)プロセスと形態の関係を評価し、最終成果物の良い/悪いは一切議論しない
(3)後半は全員参加の討議とする

(1)は成果物の広がりを検証することが目的。中心の取り方で「南西庭」「道路側庭」「南東庭」「西庭」「中庭」「スリット」「階段」などの類型が抽出。加えて、ボリュームの「分割」、屋根、階段等特定の部位を肥大化させた「建築要素」、中心そのものを取らない「非中心」など、10のグループが講評会前にあらかじめ抽出された。同じ類型の中ではプロセスの比較がしやすい。

(2)は講評者の参加の仕方を問うもの。通常の設計課題は往々にして、お題だけ出して/イメージのみを出させ/好き嫌いのみで評価することに終始しがち。ここでは、あくまで論理を検証するのが目的なので、最終形のあり方は設計者の価値判断の結果として尊重する。学生に対して「もっとほかにあるんじゃないか」「これでいいのか」というコメントは禁止。

(3)は後半の討議。課題はあくまで「設計プロセスの設計」なので、最終目的は設計プロセスについてそれぞれがある知見を得ること。そのために、参加者全員で、課題を振り返り、批判的に検証する。

講評会はグループ毎に講評者全員で1つだけその場で発表作品を選び、発表させ、気になった作品にコメントを残す方式。実施コンペの公開審査等でも、こういうふうに類型化してそのなかでいいものを選び最終案を競うパターンが多いが、今回の方法はそれに似ている。

個人的にお願いをして、ゲストに松川昌平さんに来て頂いた。松川さんは慶応大学と東京理科大で「関数空間 algorithmic space」をテーマにとてもコンセプチュアルな授業を展開している。慶応の授業には毎年最終講評会に呼んで頂いており、継続的に観察させて頂いている。視点や問題意識を共有しているからこそ、いい比較ができるのではないかと考えた。

前半の講評会は淡々と進む。参加して下さった青木茂さんを始め、ゲストの方々も「プロセス」を評価するというルールを徹底させて頂いたのでコメントの水準が揃い、議論の生産性が上がる。なお、パースやダイヤグラムは一切議論の対象とせず、設計プロセスの妥当性のみが審査される。

後半は、前半の講評会で出たいくかの問題を整理し、討議。各問題には提起した人の名前が付いている。

(1)深尾問題=恣意性問題「面白いという価値判断はどう扱われるのか」
(2)赤崎問題=論理性問題「建築の形態と意味を合わせて考える必要はあるのか」
(3)佐藤問題=偶然性問題「フェテッシュ(自らの嗜好)の取り入れ方をどうすべきか」
(4)永井問題=線形性問題「ジャンプ、迷走はプロセスにおいて許容されるか」

(1)は設計者の主観的な気づきはむしろ奨励される。ただし、プロセスに回収する
(2)は形式的な水準に限るわけではないが、それを中心に観察したほうが論理性そのものを表現しやすい
(3)はあってもよいが、案を拘束しないようにする
(4)もむしろ奨励されるが、ジャンプした後はその「意味」をよく考え、論理的手続きの連続として示す手腕が必要

一通り議論が巡ったところで松川さんに「今日一番議論したいことを言って下さい」というと、(いつものように)松川節が炸裂!滔々と藤村批判を繰り広げ、「学生はどう考えているのか知りたい!」と問う。本気の論争が始まる。

松川さんの批判は「超線形プロセスは『1つの可能性』しか検討していない。あらゆる可能性を検討した上で淘汰されていくのが論理的に正しいのではないか」というもの。

今回の課題は、ボリューム→内部プラン→家具→構造→家具の向き→屋根・開口と検討する順番をあらかじめ決めていた。その週で検討する水準は決まっており、一通りエスキスチェックした後でどんなことをフィードバックすればよいか、共有しながら進めた。

松川さんは例えば6つの水準で3通りずつ選択肢があるのなら、3の6乗=729通りの組み合わせがあるはずで、それを全て試し、比較しないと、正確な淘汰が起こったとは言えない!と主張する。

僕が(いつものように)「松川さんの言うことはメタフィジックスとしては正しいが、多くの可能性を試すには時間的な制約もあり、フィジカルには限界があるのではないか」と反論すると「それはコンピュータを使っていないからだ」という。

念のために補足すると、僕は松川さんの主張についてはこれまで散々議論して来たので100%理解していると自負している。僕の提唱している手段には物理的な限界があることは十二分に承知しているし、松川さんの主張は論理的に100%正しいと思っている。しかし、いくら松川さんの方法論に論理的な正しさを感じても、実務的、教育的な現実とのバランスを考えると、限界を感じてしまう。僕はそのことをずっと主張しており、これまで議論は平行線を辿ってきた。

松川さんの思考はあくまで「科学」のメタファーであり、「設計」をあくまで理論のモデルとして捉えるが、僕はあくまで「政治」のメタファーであり、「設計」を意思決定の手段として捉える。その違いが出ている。

ざっくばらんに言って意思決定は「科学的」ではなくても、合意が形成されればそれでよい。僕は、あるプロセスがどんなに恣意的に見えても、手続きがあり、様々な外部が内部化されていく批判的、検証的、分析的なプロセスさえあればそれでよい、と考える。

松川さんは「科学者として」その態度が許せないらしく、毎回同じことを批判して下さる。もうそこはいいではないか、降参しているのだから、と思うが、決して許してくれないw。

本気でディベートしている僕らを見て、学生は何かを感じ取ってくれただろうか。僕に付こうと、松川さんに付こうと、そんなことはどうでもいい。自分たちのやっていることの意味を理解し、自分ならばこう考える、と主体的に建築を捉えるようになればそれが成果である。

最後に深尾精一先生の総評。「70名の学生がひとりの脱落者も出ずに、最後まで参加した。しかも、全員が最後まで残って熱心に討議に参加している。教育方法として素晴らしい」とコメントを頂く。

「全員が」脱落せず、面積や構造、家具寸法や屋根といった建築的に必要なほぼ「全ての」エレメントを取りこぼすことなく、図面にまとめられていることはこの手法の特徴ではないかと思う。図面の精度等、表現力に個人差はもちろんある。しかし、学生たちが主体的に自分のやっていることを自分の言葉で語ることができるようになることは成果として大きい。

むろん、この課題の手法が建築の全てではない。だから、次以降の課題でこの手法を適用する必要はない。ただ、この課題を通じて、建築の問題として考えるべきことは何か、設計の作業として具体的にどんなことをしていけばいいか、より明確にイメージできるようになるとすれば、よい影響を与えるのではないだろうか。

かなり実験的な課題ではあったが、深尾先生、助教の猪熊純さんの協力もあり、期待以上の成果を得られたことをまず感謝したい。金沢から駆けつけてくれた松川さんを始め、ゲストに来て下さった青木茂さん、古澤大輔さん、門脇耕三さん、そして何よりも、毎回いつも楽しそうに盛り上がって議論に参加し、様々なことを教えてくれた参加者の学生たちに感謝したい。彼らの最終レポートを読むのが楽しみである。

6日、慶応大SFCキャンパスにて、松川さんのスタジオの中間講評会があった。今年はいつもと違い、SFCと理科大の合同である。松川さんはSFCに加え、昨年から理科大工学部でも教え始め、ともに「関数空間」の課題を出している。

今年はSFCと理科大が合同だったことで、気がついたことがあった。SFCの学生の発表を聞いていても、アルゴリズムの説明はあるが、設計プロセスのイメージがないため、イマイチピンとこないことが多かった。ところが、理科大の学生は一般的な意味での建築設計を学んでから参加しているため、設計プロセスのどの部分でアルゴリズムを使うか、という分析が可能なのである。理科大の学生がSFCの学生に比べて決して設計の完成度が高いわけでも、建築の知識やセンスに優れているわけでもないのだが、理科大の学生の発表になった途端に設計のイメージが湧いて来たのである。

理科大生の発表を聞いていると、アルゴリズムの使い方には大きく言って幾何学生成に特化した「パターン型/モヂュール型」と、所与のイメージにアルゴリズムで根拠を与えるような「モチーフ型/裏付け型」があった。

ただ、SFC、理科大に共通して、プログラミングをする前の思考の整理がうまくいっていないのか、想像力の問題なのか、学生たちの提案はグリッド、サークル、キューブ、ボロノイ図の4つのパターンにほぼ収束している。そして、ほぼ全ての案が平屋、ファサードなど個別の自律的なエレメントのデザインに終始しており、関係性まではデザインできていない。全体として現時点では「建築のイメージ」にふさわしい複雑性、全体性を構築しようとしている提案は皆無に近かった。

「建築のイメージ」とは何か。昔ベルラーへで聞いた哲学者マヌエル・デ・ランダのレクチャーで、彼はこう主張していた。

グレッグ・リンら、いわゆる「ブロッブ・アーキテクト」は、環境を構成する因子から定量化可能なものを抽出し、プログラム言語に置き換えて形態を生成しようとした。ところがその形態は「建築らしく」なかったために、ただの形態になってしまった、すなわち「哲学」がなかった、と。

建築も音楽も、デジタル化が進んでいる。ただ、MIDIデータにパターンを与えても「音楽」にならないように、CADデータにパターンをいくら与えても「建築」にならない。単なる「CADデータ」を「建築」にするもの、それが「建築とは何か」という思考、すなわち「哲学」なのだという。

同じことを僕は松川さんや、松川さんのスタジオを履修する学生の作品に対してずっと感じて来た。彼や彼らの作品には、幾何学のパターンはあるけれども、デ・ランダがいう「哲学」、つまり「建築らしさ」がないために、形態が「建築」として立ち上がっていないのではないか。もちろん、幾何学のパターンが切り開く建築のイメージがあることは想像できる。だが、そのアイディアが全体の統合というよりも部分のパターン生成や検証作業に留まっているうちは、それを「新しい建築」と呼ぶにはまだ飛躍があると言わざるを得ない。

松川課題が現時点で抱えている限界を乗り越えるために、最も批評的な課題が、首都大の藤村課題である。

僕は、デ・ランダのいう「哲学」、すなわち、どの水準で/どの順序で/何を検討すればただの形態が「建築」になるのか、を知りたいと思ってきた。そこで今回の課題では、学生の集団をいわば「設計マシン」のような機械に見立て、何をどのように指示すれば「建築」が立ち上がるのか、検証しようとした。

まず、検討の水準としては、(1)ヴォリューム、(2)内部プラン・家具、(3)構造、(4)家具の向き、(5)屋根・窓を挙げ、番号の順序をたどった。最初に「ヴォリューム」を抜きにして形態や空間のイメージを膨らませてから最後に検討すると、だいたいスキーム自体が崩壊する、というように、なるべく制約の多い順から検討する必要があった。これはうまく行ったと思う。

ただ、(1)ではまず、面積と高さ、庭と駐車場の位置、敷地の境界線との関係などが主な境界条件となることを教え(=入力)しなければならなかった。(2)では家具の寸法、家具と家具の隙間の寸法を教えなければならなかった。(3)では構造芯の取り方と敷地境界線の関係を教えなければならなかった。(4)では家具に向きがあることを教えなければならなかった。(5)では屋根の形式、窓の作り出す形式を教えなければならなかった。

(4)の段階以降では、それまでに検討して来たボリューム、構造芯、家具の向き、屋根や窓などを駆使して、「中心をつくる」ことを教えなければならなかった。僕は「中心化(センタリング)プロセス」と勝手に呼んでいたが、どこかに中心をつくることで設計の「主題」を浮かび上がらせた。すると、不動産屋の間取り図みたいだった図面が、急速に「建築」の図面になっていくように進化した。

つまり、設計プロセスのなかで検討された「検討の水準」「検討の順序」「境界条件」「中心化」が、「建築らしさ」を構成する「哲学」として浮かび上がって来たのだ。例えば、松川課題の履修者がこれを身につければ、彼らの限界は自ずと可能性に変わっていくはずだ。

現状では、藤村スタジオの提案には複雑さを構築する「建築」のイメージがあるが、「淘汰」を再現する科学的なプロセスがない。松川スタジオの提案には論理的な淘汰のプロセスはあるが、建築のイメージがない。ただし、両者とも技術的な問題なので改善の余地は有る。今後何をすればいいのかは、今回よくわかった。

建築的思考の基本に徹する藤村課題は初等教育向けだが、プログラミングの習得を同時進行させる松川課題は高等教育向けである。松川さんといろいろ意見交換させてもらった結果、両者をハイブリッドさせればよい、というのがさしあたっての結論である。すなわち、前半を藤村が、後半を松川さんが担当する。現代的な設計理論、コンピュータ・アルゴリズムの建築設計への応用について考える上で、最強の教育プログラムではないかと思う。いつかどこかで実現したい。

修了後、湘南台で朝まで議論。今年からは僕も授業を持つことで、相互に批評ができたのが最大の収穫だった。このやりとりを通じて、今後、取り組まなければならない問題にひとつの明確な補助線を引くことができたように思う。立場やアプローチは異なるけれど、いつもとことんまで議論してくれる、松川さんには感謝している。

追記:松川さんも今回の首都大とSFCでの講評会について書かれています。
首都大 藤村スタジオ最終講評会とSFC+理科大 松川スタジオ中間講評会(000studio/memorandum)

ここで学んだことをフィードバックして、新しい設計教育のあり方を示していきたいと思う。設計教育のあり方が変われば、長期的に見て世の中の建築のあり方が変わっていくことに繋がるはずだからだ。

fujimura

2009年06月11日

空間とともに設計を、スケッチとともに方法論を、自己とともに他者を

9日、レモン展に参加。卒業設計の審査をさせて頂く。

卒業設計の審査は人によっていろいろなかたちがあるが、僕はいつも全体をざっと1周することにしている。全体を見渡すと傾向もよくわかるし、論理のパタンを読んで、どの案とどの案を選ぶと壇上でどんな話が出来るか、いろいろ予測するのは楽しい。

審査のとき、今年は不作だ、とか、農作物みたいにいう人もたまにいるのだが、僕はあまりそういうことを思ったことがない。面白い案は必ずある。それをどうやってピックアップして、どういう議論を作れるかは、むしろ審査する側の「眼力」の問題だと考える。

レモン展は初めて参加させて頂いたが、とても充実していた。いろいろなタレントに出会えたし、壇上での審査も勉強になった。

今回一番切れ味を感じたのは東洋大の佐伯周一さんの作品。樹木の根の形態に注目し、分析して言語を与え、再構成してみせたもの。根に注目するという着眼点の意外さ、それをきちんと再構成する論理構成の良さ、絵のうまさ等、とても素晴らしい。一見風変わりだが、こういう作品を自分の言葉で語れるかは審査員の力量がむしろ問われるし、その良さをただ「いい」と押し切るのではなく、他の審査員の先生方に「論理的に」伝え、評価を変えていく作業が一番スリリングで楽しい。

北海道大の石黒卓さんの作品も一目見てピンと来る建築としての重層性を持っていて惹かれた。スケールやボリュームといった建築的な複雑性があり、10Mグリッドを再構成するという設計の方法論があり、集合の論理を内包したような都市性がある。「設計」を地域性の再構成のために使っている。壇上で質問してもビジョンが明解だし、とても共感できる。

形がデーハーな東工大の鎌谷潤さんの作品は図書アーカイブの機能を再構成してイメージを与えたもの。スケッチは圧倒的ではあるが、示されている「設計の意味」を分析すると、提案としては少々物足りないと感じた。アーカイビングという着目点とアルファベット+時系列という整理は明解だとして、その図式を単純に表象しただけだとしたら、それって下水処理場をドラマチックに描いたことと何も変わらないじゃないかと聞くと、答えは出て来なかった。もちろん、並の4年生よりは知識が豊富で、頭のいい彼のことだから、僕の質問の意味はもちろんわかっているし、問題を冷静に把握しているはずだ。

ただ、審査員の眼力ってこんなもんだろ、と馬鹿にされているとすら感じるほどケレン味たっぷりなプレゼはなかなか役者ではあると思う。審査員として、こういうのに単純に引っかかってはいけない、と思っていたら長谷川賞。理由は「卒業設計らしくていい」とか。こういうときは案外素朴なんですね。

個人的に推したくても今ひとつ推し切れなかった作品のひとつに理科大の村田加奈子さんの作品である。理科大での講評会で当初補欠的な順位だったこの作品は、方法論についての議論を尽くした後で順位を上げ、もう少しで1位になりそうだったことを思い出す。

日本の大学で、アルゴリズム系の作品が1位を取ることはまだ少ないのではないかと思う。作家主義バリバリの昨今ではアルゴリズム=自動=意志が弱い、というイメージがまだまだ強いようだが、村田さんはそんなことまるで気にしてない風で力強い。模型表現にスケール感とかディテールが弱いのが少々残念だったが、何か確信に満ちて新しい方法を示そうとしている。

卒業設計の講評会は毎年たくさん呼んで頂くが、最近はだいたいいつも最後に「私性」か「社会性」か、という議論になり、「やっぱりその空間を経験したいかが大事だ!」という話になって、結局「やっぱり個人のイメージが大事だよね」という話に落ち着いてしまうことも多い。つまり、学生たちがナイーブなのは、それを講評する側のトーンがナイーブだからでもある。

ただ、いくら講評する側の枠組みが強固だと言え、それに立ち向かう諸兄までそのトーンにつられていては少々従順すぎやしないだろうか。それは例えば「歌舞伎」という作文のテーマを与えられて「この大事な文化を守らなければいけない」と書いてしまうようなもので、マンネリもいいところである。そういうときは「歌舞伎は大衆文化なのだから、大衆から支持されなくなったら消滅されても構わない」と書いた方が光る。そういう頭の良さというか、勘の良さも、一方では必要なのではないか。

その意味で、佐伯さんや村田さん等、今年のレモン賞の受賞作のなかでそういうベタな表現に距離を取ったクールな案が選ばれていたのは審査に参加させて頂いたものとしてとても嬉しい。そして、方法論を鮮明にした石黒さんの案が「せんだい」で日本一になったことは、新しいヒーロー像を生むのではないかと期待が膨らむ。

レモン展で再確認したのはやはり、「いいものはいい」「好きだからつくる」というセリフは、そろそろ言い尽くされている感があるということ。工学が複雑に発達した現代では、いくら「好きだから」と絵を描いても、それが現実に実現しようがないことは学生だってわかっているはず。なぜそれを作っているのかと言えば「卒業設計だから」としか思えない。その無意味さを打破するには、現代の社会状況に照らして「設計の意味」を考える、という真っ当な思考が必要なのだ。

・・・という趣旨のことを述べたら、審査委員長の富永譲さんに「なんでそんな古くさいことをいうのか」とツッコミを頂いた。確かに、富永さんらは硬直した建築論を個人の内発的なイメージで突き抜けようとした世代だ。たが今は、難波和彦さんも書かれているように、時代が一回りしたのである。今こそ、メタボリズムやアレグザンダーの時代に戻って、もう一度社会と「設計」の関係を捉える時期なのではないか。

ただし、それは「私」に対して「社会」を対峙させるのではない(ここ重要)。アトリエと組織を単純に対峙させても枠組みが違いすぎて面白くない。東浩紀さんが『建築雑誌』で書いて下さったように、人工物(=作品=アトリエ)と自然(=匿名=組織)を対立的に捉えるのではなく、一見中途半端にみえる「批判」というポジションこそが、今必要な戦略であり、そこで新しい設計組織像、新しい作家像、新しい作品像を作っていく必要があるのだ。

だから86世代の諸君!そろそろ「内部と外部の曖昧な関係」とか、「自分が住みたい」とか、終わりなのではないか。時代はとっくにアーキテクチャーとアルゴリズムのフェイズに突入しているのに、建築だけが、卒業設計だけが、いつまでも私性主義で足踏みしているのはつまらないのではないか。

今こそ「空間」とともに「設計」を、「スケッチ」とともに「方法論」を、「自己」とともに「他者」を、語ろうではないか。そうすればこのマンネリに満ちた空気は突破できるだろう。2010年以後、86世代諸兄の切れ味が問われる。

fujimura

2009年06月14日

6月28日、濱野智史さんと「設計」を語ります

6月28日19:00より、青山ブックセンター本店(渋谷)で濱野智史さんとトークイベントが開催されます。

『思想地図vol.3』刊行記念 濱野智史×藤村龍至トークイベント 「設計/デザインを考える」 

濱野さんにはLIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2009にも来て頂きましたが、『思想地図』でも、『ユリイカ』でもご一緒していますので、久しぶりにお話しできるのがマジで楽しみです。

さっき知ったのですが、同日に同じ場所で長坂常×中山英之×西澤徹夫のトークイベントもあるようですね。芸術 vs 工学、表層 vs 深層ですか。分が悪いのでは。

でも両方見ると、現代社会の構図がよく理解できそうですね。賢明な諸兄はぜひ両方見ることをおススメします。「表層と深層を架橋せよ!」ということでw。

思想地図、ユリイカ、建築雑誌と感想がちらほら届いております。

1.インテリアを語る/検証「批判的工学主義」(matt | atlas ver.beta)

この<特集:検証「批判的工学主義」>や思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ、ユリイカ2009年6月号 特集=レム・コールハースなどで藤村龍至さんのテキストを集中して読む機会になりました。思想地図の「グーグル的建築家像をめざして」は、状況から解釈ではなく状況からプロセスを表した秀逸なテキストだと思います。

李さんのインタビューは『建築雑誌』6月号の第1特集で掲載されていますが、「これで建築とインテリアの間にコミュニケーションは生まれるのでしょうか?」と問題提起。一度ゆっくりお話伺ってみたいですね。

2.『BUILDING K』藤村龍至(藤原徹平)

すごく凝った感じのボリューム構成とすごく適当そうに見える外壁材とのアンバランスな組み合わせが、普通でない。すごく丁寧につくったフランス田舎風煮込みを100円ショップで買った陶器の器に盛るような感じかな。少し違う気もする。まな板がテーブルマットで出てきた感じか。

貴社設計の「ONE表参道」も3面がアスロック素地ですけどw。藤原さんらしい、簡潔なテキストでコメント頂き感謝。

3.『グーグル的建築家像をめざしてー批判的工学主義の可能性』を読んで(dislocated passage)

論を丁寧にトレースし、ちょいちょい口を挟むという構成で、最後に「藤村龍至氏には設計活動、実施であれ、アンビルトであれ、新しい作品を作っていくことを期待している。」と激励。肝心の彼の主張は何なのだろうとも思うが、関心を持って下さっているのは嬉しい。

このテキストを読んでいると、口を挟んでくれているところが今回の論考で意図が通じにくかったところだということがよくわかる。次回バージョンアップするときに反映させて頂くことにしよう。

そのほか、先日対談させて頂いた難波和彦さんも日記でコメントして下さっています(6月2日・3日)。

『思想地図』vol.3を読み続ける。藤村龍至の「グーグル的建築家像をめざして 批判的工学主義の可能性」は、これまで藤村さんが書いて来た「批判的工学主義」の総まとめになっている。(中略)巻頭の共同討議「アーキテクチャと思考の場所」に関する藤村流のコメントもあり、なかなか充実した論文になっている。

藤村さんが提唱する「超線形設計プロセス」は設計プロセスにおける磯崎流の「切断」を模型によって外部化し「保存」する点に特徴があるが、この「模型による外部化」について、藤村さんはちょっと気になる注釈(注釈36)を行っている。「近い将来「模型」のはたす役割は3次元CADのシステム(BIM)に移行するであろう。総合的な設計データの保存は竣工後の改修や改築をスムースにし、建築をより「プロセス・プラニング」的にする」。

このコメントの後半は正しいが、前半は明らかに間違っている。「模型による外部化=物質化」から得られるノイズに溢れた情報は、決して3次元CADシステムがもたらすヴァーチャルな情報では代替できない。藤村さんは気づいていないようだが、僕の見るところ超線形設計プロセスによる進化論的なデザインは模型化=物質化によるノイズ=突然変異によってもたらされるのだ。これは藤村さんが一連のインタビュー記事をインターネットではなくフリペーパーに外部化=物質化していることとも関係している。外部化=物質化は情報を身体化し、予測できないノイズを生み出す。要するに情報の物質化は、真の意味で予測不能な「外部」をもたらすのである。「切断」の最大の可能性は、そうした「外部」を生み出す点にあると言っても過言ではない。

コメントに感謝致します。

翌日のコメントでも「設計プロセスに非線形な不確定性=カタストロフを避けることは出来ない」ことをご指摘頂いています。

念のため補足させて頂くと、僕は設計プロセスが一般的に予測不可能性、カタストロフ、ノイズを避けることは出来ないというご指摘はもっともで、そのことに反論するつもりはありません。

ただ、僕が設計プロセスを進化論的にプレゼンテーションするのは、時代状況から考えて、予測不可能性やカタストロフを強調するよりも、その限界を踏まえた上であえて設計手続きの可能性を考える方がポジティブに感じられるからです。

難波さんが繰り返しご指摘されるように、デザインは本来非線形なプロセスをたどるし、カタストロフは避けられないし、アレグザンダーは失敗したかもしれない。が、その認識に立つことと、社会的な意志を持った人がそれを果たしたいと考えるとき、その人の挑戦を手助けする道具として「設計」を用いようとすることは別の話なので、限界よりは可能性を論じたいと思うのです。

恐らく、「設計」の限界を主張することが批判として重要だった1970年代という時代があったのだと思うが、今は時代が一回りし、「設計」を主題にしたほうがメッセージになる時代なのではないか。

a+uの『MVRDV FILES』(2002年11月臨時増刊)でのヴィニー・マースと青木淳の対談で、「シニシズムに打ち勝つには共感が必要」と主張していたことを思い出す。

久しぶりにヴィニーに会いたくなって来ました。いつか「批判的工学主義」や「超線形プロセス」の話をしてみたい。

というわけで、濱野さんとの討議は楽しみです。じっくり難波さん(や青木さんや富永さん)への反論を組み立てたいと思いますw。

fujimura

2009年06月20日

夢と現実、学生と社会人、ビジュアルとマニュアルのあいだ

16日、理科大エスキスチェック。淡々と模型をバージョンアップさせて来ている人もいるが、「家具」のフェイズになって足踏み状態となる者も出て来た。

よくCADだと寸法が身に付かない、と言われるが、これまでイマイチ理解できなかった。コンピュータ=ヴァーチャル=寸法感覚の欠如、というのはいささか図式的すぎるではないか、と思っていたが、理科大の学生を見ていると、本当にそうなのでびっくりしている。

個人の能力もあるだろうが、昨今はゆるゆるの平面に家具と洗濯物と植木鉢をばらまくのが流行だということもあり、寸法で空間を構築していく設計のイメージがそもそも湧かないらしい。

コンピュータ世代にとってそれは深刻な問題のように響くが、自分の経験に照らしても、単にいくつか基本的な寸法を覚えればいいだけの話で、問題はそこまで深くない。コンピュータ化と寸法感覚の欠如は直接的には関係なく、単にコピペが簡単に出来るので自分で寸法を入力しなくてもよくなり、誰かからもらった家具データをとりあえず並べる、ということが起こりやすい、というだけのことである。どちらかというとGUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)やマウスのせいである。

データの複製コストが下がり、異なるバージョンを出しやすくなったことはCAD化の最大のメリットのひとつではあるが、教育レベルではその部分を注意深くフォローしておかないと「製図」にならないということがよくわかった。逆に言えばそこさえ改善すれば図面が見違えるように濃密になるということも首都大の授業で検証できたことである。

なので、自分のスタジオでは毎回、学生ひとりひとりに「これ、何ミリのつもりで描いたの?」とひとつひとつ質問し、チェックすることにしている。それでその人の寸法の感覚や手抜き度合いが把握できるからである。こちらとしては、コピペを「摘発」することが目的ではなく寸法を覚えてもらうことが目的なので、その場で具体的な数字も確認しながら共有していく。

この日、最後に遠藤勝勧さんの本を見せたらいいリアクションだった。寸法はイメージという夢を壊すものではなく、寸法という現実をもとにイメージを膨らませる手がかりのようなものなのだ。その感覚が共有できるといい。

本来「設計」とは、現実を切り離して夢だけを語るのではなく、夢を切り離して現実だけを語るのではなく、夢と現実を繋ぐような作業なのではないか。面積、構造、寸法、形式といった建築的思考の諸形式は、それらをつなぐ道具になりうる。

そんなふうに夢と現実の関係について考えていたある日、上海の設計事務所に勤務するMY君が『1995年以後』のレビューを書いてくれたと連絡があった。

仕事としての建築(MY life)

さて本書は、仕事として建築を始めたばかりのボクにとっては、かなり刺激的なものです。

仕事として直面する建築は、大学(院)まで戯れていた建築とは大きく違います。
違うというか別ものです。

この違いは本当に興味深い。

お。

この違いをおもしろく感じる日もあればつまらなく感じる日もあります。
良い意味で違いを感じることもあれば悪い意味で感じることもあります。
この違いを早く知りたかったと思うときもあれば知りたくなかったと思うときもあります。

なるほど。

そんなこんなで少しずつ「仕事としての建築」を感じたり考えたりしていたボクにとって、いまこの本に出会えたことはとても大きな出来事でした。
タイミングといい内容といい、ん〜パーフェクト。

ふむふむ。

ボクと同じような境遇の若いみなさんに是非読んでもらいたい1冊です。

そしてみんなで議論しましょう。
議論のネタに最適です。

いいねえ!

しかも「超批判的青春驀進書籍!」って、なかなか笑えます。さすがMY君。

他方で、こんなリアクションもあった。

minori-minoryの日記

藤村さんの話は学科の友達ともよくします。難波さんとの対談もあったり、実作が出てきたりと、傍から見ていても今一番アツい若手の一人だと思います。

ふむふむ。

ただ、僕のような建築を勉強したての人間から見ると、どうも腑に落ちないところがいっぱいあります。

おっと。

ある友人も『Building Kってかっこ良くないよな。』って言っています。建築は外観だけではないとは思いますし、ぱっと見ではなく、じっくりと感じることの出来る価値感がBuilding Kにはあるのかもしれませんが、いかんせん無個性すぎて・・・

あれ。

社会的立ち位置が明確になりますが、若いのにここまでシステマチックな様子は、勉強し始めたばかりの僕からしたら夢がなさ過ぎて悲しくなります。

そうですか。

わざわざ完コピで引用してもらった挙げ句、「悲しい」と言われるとこちらが悲しくなるが、それはさておき、彼のリアクションは現状の藤村龍至系の言説に対する学生の平均的な反応かな、と感じるところもある。MY君の熱いリアクションと正反対である。

このことは『1995年以後』を始めとして、ROUNDABOUT JOURNAL関連の言説の響き方にも通じるものがある。

『1995年以後』はインタビュイを1971年生まれの藤本壮介さんを筆頭に、1983年生まれの大西麻貴さんまでに絞ることで、「世代」というコンセプトをはっきりと打ち出した。そのことが読者の反応の違いをくっきりと浮かび上がらせてもいる。

まず、読者を以下のように分類する。

第1層(1970年生まれ以前)39歳以上
第2層(1971-1983年生まれ)26歳以上38際以下
第3層(1984-1986年生まれ)23歳以上25歳以下
第4層(1991-1986年生まれ)18歳以上22歳以下
第5層 異分野

第2層が本書に登場するインタビューの年齢層。第4層が学生。第3層はその中間で、就職を控えた大学院生か、就職したばかりでいろいろ考えているフレッシュマンたちである。

現状のリアクションはだいたい以下のような感じだ。

第1,2層:「若手」という括りがひっかかって、斜め読み。
第4層:「社会との関係」が主題なのであまりイメージできず。
第5層:テクニカルタームが多いので少々リーチしにくい。

一番反応が熱いのがMY君のような第3層で、ブログ等で頼まれてもいないのにわざわざ引用して熱心にレビューしてくれているのはほとんどこの層である。TEAM ROUNDABOUT自体、社会に出たばかりの頃の学生と社会人、教育と実務、夢と現実のギャップについて悩み、議論したところから活動をスタートさせているから、よくも悪くもそういう年代に突出して響くメッセージとなっているのだろう。

ポテンシャルのありそうなのは第5層で、『思想地図』『ユリイカ』を通じて藤村龍至の論文を読んだ人が流入してくる可能性がある。固有名詞とテクニカルタームさえフォローできれば「1945/1970/1995」というフレーム自体は社会学や批評の分野の方が共有されているし、テーマ自体も情報化と郊外化なので、馴染みやすいはず。

よくも悪くもターゲットを絞った本になったとは思うが、何事も最初は1点突破しないことには始まらないので、試みとして悪くなかったと思っている。卒業設計のお祭り騒ぎを終えて、将来を考え始めた人、就職して、考えさせられることの多い23-27歳くらいの人には時代を超えて刺激する本になるのではないか。

1995年以後―次世代建築家の語る現代の都市と建築

リアクションを見て、次の攻め方も見えてきた。作品集(学部生のネタ)とマニュアル本(院生や実務のネタ)の間で、全部の層を同時に刺激するような本をつくりたい。

ところで刺激的な本と言えば、売れ行き絶好調という『思想地図 vol.3』の、建築学生における浸透率はまだまだ低い。理科大で『思想地図』を買っている人は現在のところ7名中1名のみ。藤村スタジオを履修していて、毎週散々呼びかけられてもこの反応だから、建築学生でこれを買って読んでいる人はまだまだ少ないのだろう。せっかく哲学、批評、文学、社会学、情報社会論、建築学を横断する、「スーパーフラット」以来の大きな共振現象が今、まさに起きつつあるというのに。

この本を買っている建築関係者はもともと思想系の本をよく読んでいたり、鈴木謙介さんのラジオのリスナーだという人が多い。つまり、建築学生が『思想地図』を買うとすれば、もともと読者だった人で、一般の建築学生にとってはビジュアル・ソースにならないし、実務家にとってはマニュアルにならないので、新たな購入動機になりにくいようだ。逆に思想系の読者が建築に興味を持って建築関係の本を買うきっかけになる可能性は高い。

20日、某研究会で濱野智史さんと会う機会があった。少し話したのだが、28日に青山ブックセンターで開かれる濱野藤村対談はかなり熱くなりそう。しかし、先ほどの理由から想像するに建築の学生はあまり来ず、藤村という新しい書き手と濱野さんの絡みに興味を持った思想地図系の読者のほうがたくさん来てくれるような気がする。

僕としては、建築関係者のほうにより多く来て欲しいと思っている。「アーキテクチャ」は「スーパーフラット」以来の共振現象であり、しかも「建築」が主題になっているという前代未聞の事態である。「建築」が時代を語るコンセプトになりかけているときに、肝心の建築家がその議論に参加していないのでは少々寂しいではないか。

「アーキテクチャ」そのものはビジュアルでもなければ、マニュアルでもない。コンセプトである。夢を見させてくれるわけでもなければ、すぐに現実に役立つものでもない。まさに夢と現実、学生と社会人、ビジュアルとマニュアルをつなぐものなのだと思う。そしてそれは、いつの時代にもあるものでもない。時代の節目にふっと現れるもので、目の前に現れたときにつかまなければならない。逃せば溝が深まるし、つかまえられればその溝を埋めることができる。

だから私たちは、このコンセプトをつかまえようと、議論を繰り返すのである。28日も、その意味で重要な機会になるだろう。だから少々課題の締め切りが迫っていようが、せっかくの休日に時間がなかろうが、この時代の節目に建築に関わることの意味を見出したいならば、この機会を見逃す手はないのである。読者諸兄の行動に期待したい。

fujimura

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