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20世紀の編集者

 5月の連休でお会いした絶版書房の石山修武さんは、今年中に発行するどこかの号で達成したい「ある部数」を口にしていた。内容(100%石山)と形式(直筆ドローイングの描き込み)の新しさを踏み越えて、いよいよ部数面で事件を起こすつもりらしい。確信犯的にその部数を突破することが当初からの目的の一つだったのだろう。もちろん絶版書房が出版社として独立するというわけではないが、「ある許容範囲」からはみ出す部数である。既存の専門書系出版社は、いよいよあわてるのではないだろうか。

 さて、ひとつ前のエントリの続きだが、16日の議論を起点として、編集者(あるいはその役割を担う人)とジャーナリストはやはり違う役割だと再確認できた。同一人物が両者を兼ねるケースは山ほどあるが、おおざっぱに仕事を分ければ、編集者はメディアをつくり、ジャーナリストは参加する。メディアを媒介に、両者と、取材対象が共存して、読者のいる「世界」に到達する。編集者とジャーナリストが協同しなければ、批評的なメディアは成立しない。うん、当たり前すぎて叱られかねないほど自明の事実だ。
 その上で、編集行為はどこかデザイン的であるとも思う。しかし、それは表現面での新しさを指すものではない。たとえば、日本語という言語の構造と、印刷、製本という制作条件を極限まで磨き上げた文庫本という形式がある。文庫本に特徴的な形式を遵守する中で(あるいは遵守することで)、文章の順序や表現がデザインされたものだってあるはずだ。それにしても、藤崎さんが「書くことはデザイン行為ではない(デザインとは呼べない)」と語ったことは印象深く、忘れがたい。

 忘れないうちに立ち戻って考えたいのが、すでに重要な位置を占めている、存在感のあるメディア(この場合はジャンルではなくて固有名としての)の将来像である。以前岡田さんとお話した時に、「今ある雑誌の機能の大部分は、ウェブに移行しても何ら問題ないと思う」と断言されたことがあった。同時期に、別のよく知る編集者からは「『新建築』はそのままウェブになっても問題なく運営できるのではないか」と言われて驚いた。確かに、完璧な写真アーカイブ運営のシステムを構築して、広告収入を確保しつつ、新規の建物をウェブで紹介する時代が来たっておかしくない(ないだろうけど)。ある意味、「1次情報だけが残るのではないか」と建築雑誌で書いた平塚桂さんの論考にも重なる。しかし印刷物というプロダクトが持つ物質的な特徴と、日本という社会的の特殊性を考えれば、新建築が紙じゃなくなるなどということは、単に荒唐無稽な話なのだけれど。
 もちろん、藤崎さんが言うように、雑誌媒体には「雑誌ならではの快楽」がある。触った感じ、持った感じ、読む感じ。好きなところで折ったりめくったり破ったり、それをどこかにスクラップして自分流に編集しなおしたり。同じ紙媒体であっても、書籍の硬質な物質感とは異なる。そういったプロダクトとしての雑誌デザインの可能性を突き詰めて、ぐっと押し広げるような仕事が今後もあっていいはずだ。「日本史」展がプロダクトデザインの領域を思い切り拡張したように。「クリック」の快感と「リンク」の脈絡のなさという、ウェブのプロダクト的特徴と、「やりたいこと」を最大限にマッチさせたdezain.netのように。

 デザインされていないメディアはたしかに少なくない。しかし、形式面でいくら発明のあるメディアであっても、即編集的に優れたものだとは限らない。このあたりは、「『細い柱を表現する』とか、建築家にとって大事でも、建築にとってはどうでもよいことである」と断言する藤村くんの態度に、あるいは似ているかもしれない。言うまでもなく、柱を細くすることよりも、細くした柱で何をするのかが大事なのだ。
 ついでながら、雑誌はメディアだが、メディアだからといって雑誌を指すわけではない。言うまでもなく、書籍もウェブも(イベントもフリーペーパーも)メディアだ。
 つまり、形式の新しさは編集者にとっては重要だが、印刷物にとって意味ある新しさかどうかは分からない。むしろ、過去のものも含めて、発明した形式をどのように活用するかが、編集者のセンスの見せ所なのだろう。建築家が壁の建て方から逃れることができないように。これはおそらく、20世紀の編集者がとってきた態度と変わらないのかもしれない。違うのは、さらに新しいものをつくろうとしているかどうか。それだけだと思う。

yamasaki

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2009年06月07日 00:19に投稿されたエントリーのページです。

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