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空間とともに設計を、スケッチとともに方法論を、自己とともに他者を

9日、レモン展に参加。卒業設計の審査をさせて頂く。

卒業設計の審査は人によっていろいろなかたちがあるが、僕はいつも全体をざっと1周することにしている。全体を見渡すと傾向もよくわかるし、論理のパタンを読んで、どの案とどの案を選ぶと壇上でどんな話が出来るか、いろいろ予測するのは楽しい。

審査のとき、今年は不作だ、とか、農作物みたいにいう人もたまにいるのだが、僕はあまりそういうことを思ったことがない。面白い案は必ずある。それをどうやってピックアップして、どういう議論を作れるかは、むしろ審査する側の「眼力」の問題だと考える。

レモン展は初めて参加させて頂いたが、とても充実していた。いろいろなタレントに出会えたし、壇上での審査も勉強になった。

今回一番切れ味を感じたのは東洋大の佐伯周一さんの作品。樹木の根の形態に注目し、分析して言語を与え、再構成してみせたもの。根に注目するという着眼点の意外さ、それをきちんと再構成する論理構成の良さ、絵のうまさ等、とても素晴らしい。一見風変わりだが、こういう作品を自分の言葉で語れるかは審査員の力量がむしろ問われるし、その良さをただ「いい」と押し切るのではなく、他の審査員の先生方に「論理的に」伝え、評価を変えていく作業が一番スリリングで楽しい。

北海道大の石黒卓さんの作品も一目見てピンと来る建築としての重層性を持っていて惹かれた。スケールやボリュームといった建築的な複雑性があり、10Mグリッドを再構成するという設計の方法論があり、集合の論理を内包したような都市性がある。「設計」を地域性の再構成のために使っている。壇上で質問してもビジョンが明解だし、とても共感できる。

形がデーハーな東工大の鎌谷潤さんの作品は図書アーカイブの機能を再構成してイメージを与えたもの。スケッチは圧倒的ではあるが、示されている「設計の意味」を分析すると、提案としては少々物足りないと感じた。アーカイビングという着目点とアルファベット+時系列という整理は明解だとして、その図式を単純に表象しただけだとしたら、それって下水処理場をドラマチックに描いたことと何も変わらないじゃないかと聞くと、答えは出て来なかった。もちろん、並の4年生よりは知識が豊富で、頭のいい彼のことだから、僕の質問の意味はもちろんわかっているし、問題を冷静に把握しているはずだ。

ただ、審査員の眼力ってこんなもんだろ、と馬鹿にされているとすら感じるほどケレン味たっぷりなプレゼはなかなか役者ではあると思う。審査員として、こういうのに単純に引っかかってはいけない、と思っていたら長谷川賞。理由は「卒業設計らしくていい」とか。こういうときは案外素朴なんですね。

個人的に推したくても今ひとつ推し切れなかった作品のひとつに理科大の村田加奈子さんの作品である。理科大での講評会で当初補欠的な順位だったこの作品は、方法論についての議論を尽くした後で順位を上げ、もう少しで1位になりそうだったことを思い出す。

日本の大学で、アルゴリズム系の作品が1位を取ることはまだ少ないのではないかと思う。作家主義バリバリの昨今ではアルゴリズム=自動=意志が弱い、というイメージがまだまだ強いようだが、村田さんはそんなことまるで気にしてない風で力強い。模型表現にスケール感とかディテールが弱いのが少々残念だったが、何か確信に満ちて新しい方法を示そうとしている。

卒業設計の講評会は毎年たくさん呼んで頂くが、最近はだいたいいつも最後に「私性」か「社会性」か、という議論になり、「やっぱりその空間を経験したいかが大事だ!」という話になって、結局「やっぱり個人のイメージが大事だよね」という話に落ち着いてしまうことも多い。つまり、学生たちがナイーブなのは、それを講評する側のトーンがナイーブだからでもある。

ただ、いくら講評する側の枠組みが強固だと言え、それに立ち向かう諸兄までそのトーンにつられていては少々従順すぎやしないだろうか。それは例えば「歌舞伎」という作文のテーマを与えられて「この大事な文化を守らなければいけない」と書いてしまうようなもので、マンネリもいいところである。そういうときは「歌舞伎は大衆文化なのだから、大衆から支持されなくなったら消滅されても構わない」と書いた方が光る。そういう頭の良さというか、勘の良さも、一方では必要なのではないか。

その意味で、佐伯さんや村田さん等、今年のレモン賞の受賞作のなかでそういうベタな表現に距離を取ったクールな案が選ばれていたのは審査に参加させて頂いたものとしてとても嬉しい。そして、方法論を鮮明にした石黒さんの案が「せんだい」で日本一になったことは、新しいヒーロー像を生むのではないかと期待が膨らむ。

レモン展で再確認したのはやはり、「いいものはいい」「好きだからつくる」というセリフは、そろそろ言い尽くされている感があるということ。工学が複雑に発達した現代では、いくら「好きだから」と絵を描いても、それが現実に実現しようがないことは学生だってわかっているはず。なぜそれを作っているのかと言えば「卒業設計だから」としか思えない。その無意味さを打破するには、現代の社会状況に照らして「設計の意味」を考える、という真っ当な思考が必要なのだ。

・・・という趣旨のことを述べたら、審査委員長の富永譲さんに「なんでそんな古くさいことをいうのか」とツッコミを頂いた。確かに、富永さんらは硬直した建築論を個人の内発的なイメージで突き抜けようとした世代だ。たが今は、難波和彦さんも書かれているように、時代が一回りしたのである。今こそ、メタボリズムやアレグザンダーの時代に戻って、もう一度社会と「設計」の関係を捉える時期なのではないか。

ただし、それは「私」に対して「社会」を対峙させるのではない(ここ重要)。アトリエと組織を単純に対峙させても枠組みが違いすぎて面白くない。東浩紀さんが『建築雑誌』で書いて下さったように、人工物(=作品=アトリエ)と自然(=匿名=組織)を対立的に捉えるのではなく、一見中途半端にみえる「批判」というポジションこそが、今必要な戦略であり、そこで新しい設計組織像、新しい作家像、新しい作品像を作っていく必要があるのだ。

だから86世代の諸君!そろそろ「内部と外部の曖昧な関係」とか、「自分が住みたい」とか、終わりなのではないか。時代はとっくにアーキテクチャーとアルゴリズムのフェイズに突入しているのに、建築だけが、卒業設計だけが、いつまでも私性主義で足踏みしているのはつまらないのではないか。

今こそ「空間」とともに「設計」を、「スケッチ」とともに「方法論」を、「自己」とともに「他者」を、語ろうではないか。そうすればこのマンネリに満ちた空気は突破できるだろう。2010年以後、86世代諸兄の切れ味が問われる。

fujimura

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2009年06月11日 01:56に投稿されたエントリーのページです。

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