« ROUNDABOUT JOURNAL vol.8 全国展開!! | メイン | 20世紀の編集者 »

「メディア的ふるまい」の時代

 5月16日、藤崎圭一郎さんと岡田栄造さんのトークショーを見に東京に行った。直前まで悩んだけど、しかし、藤崎さんのブログにただしく当てられてしまったからには、聞き逃す訳にはいかない。  当日の様子はすでに多くの参加者がブログにupしているし、先日も加藤孝司さんが的確なレビュー(告白)を掲載されていた。この日の議論は日を改めて継続されるとも聞いている。僕自身もこの日のことは、京都に戻ってから何度も書き直している。でもどうもすんなり書けない。うまく消化できていないし、たぶんまだ僕自身が語るべき言葉を持っていないのだなきっと。

 トークで印象に残ったのは、まず藤崎さんの編集者としての自覚と自信だ。たとえば、藤崎さんは批評(ジャーナリズム)の役割について、こう語っていた。「見方ノノというと視覚だけになっちゃうからそうは言いません。見方ではなく、感じ方そのものを変えること、変えることができると示すことが批評の役割ではないか」と。見方と感じ方。同じようでいて全然違うこの二つの言葉を即座に言い換えて、観客の認識を180度変えてしまう。これは極めて編集者的な集中力を伴う判断だと思う。
それと、これは「やはり」というべきなのだけど、藤崎さんは「書くことはデザインじゃない」という趣旨の発言をされていた。何かをデザインするつもりで書いているのか、という質問に対しての返答だ。「そう言いたいのならば言えばいいけど、書くことは書くこと。デザインではない」。「ばっさり」と質問が切り落とされた音が聞こえた。原理主義的に聞こえるがたしかにそれはそうだ。ただ、シンプルすぎて実行するのが難しいだけだ。

 ところで、この日のお二人の発言に見出しを付けるならば、「批評で世界を変える」となるだろうか? それは、ある意味でこの日の対話を象徴しているし、あるいはまったく言い当てていないとも言える。
 こう思った。批評的な行為に何か好ましい特徴を見出だすとすれば、それは、あるデザインについて個人の持つ感情・理解に言語で肉薄することを、執筆者が「覚悟できてしまう点」にあるのではないか。覚悟から踏み切りまでの助走距離の長短は人それぞれだろうが、「よし、いっちょ書くぞ/言うぞ」と積極的に思い切ることができること。しかも、誰も読んだことのない文章を生むという結果があり得るとすれば、これは挑戦的な仕事だ。
 今回、メディアに関連して確認しておきたいのは、藤崎さんの口から、批評(テキスト)を掲載するメディアなら、それもインディペンデントなスモールメディアならば世界を変えられるかもしれないという主旨の発言があったことだ。もちろん日記でも書かれている。
 テキスト(批評)は、たとえばウェブを介せば今や誰でも(僕でも)発信できる。それはそれでいいだろう。しかし、「発信欲」が欲求不満を起こしてショートする可能性は、ネット系メディアが過渡期を迎えたかに見える現在、かえって高まっているのではないかとも思う。
 メディアを媒介することで初めて、批評は「言葉が届く相手」を獲得する。正確に言うと、獲得する可能性を持つ。そんなことは当たり前だと、あるいは思われるだろう(僕も思う)。しかし、何かを媒介とすることがなぜ価値を持ちうるのかを同時に考え続けることなくして、その「価値」そのものをメンテナンスしたり、更新したりなどできない。メディアが世界を変えるとしても、その変えるべき世界のありようを考えることなくして、また、そこでメディアの存在が働きかける効果のようなもの(それを仮に「メディア的ふるまい」と呼んでみる)を考えること浮ことなくして、メディアを発生させることなどありえないのではないか。
 だから、今藤崎さんがスモールメディアを持つこと(あるいはそうであること)の意味を執拗に問うていることそのものを、読者でもある僕は真剣に考えたい。かかわる物事すべてが持ちうる「メディア的ふるまい」の内実を考えながら。

yamasaki

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.round-about.org/cgi/mt/mt-tb.cgi/229

About

2009年06月07日 00:17に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「ROUNDABOUT JOURNAL vol.8 全国展開!!」です。

次の投稿は「20世紀の編集者」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。