1日、首都大学東京の授業、最終講評会がありました。
首都大学東京「建築デザイン1」最終講評会(BUILDING M 日記)
早速、ブロガー諸兄のエントリが上がっております。
住宅の設計プロセスを設計する-住宅課題・出題者=藤村龍至(ARCHI BLOG)
住宅課題−講評会・議論(ARCHI BLOG)
they're playing the song of the century(post_tokyo)
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最終講評会はコンセプチュアルな授業のラストにふさわしい、コンセプチュアルな進行を考えた。
(1)作品講評は成果物を類型毎にグループ化し、比較しながら行う
(2)プロセスと形態の関係を評価し、最終成果物の良い/悪いは一切議論しない
(3)後半は全員参加の討議とする
(1)は成果物の広がりを検証することが目的。中心の取り方で「南西庭」「道路側庭」「南東庭」「西庭」「中庭」「スリット」「階段」などの類型が抽出。加えて、ボリュームの「分割」、屋根、階段等特定の部位を肥大化させた「建築要素」、中心そのものを取らない「非中心」など、10のグループが講評会前にあらかじめ抽出された。同じ類型の中ではプロセスの比較がしやすい。
(2)は講評者の参加の仕方を問うもの。通常の設計課題は往々にして、お題だけ出して/イメージのみを出させ/好き嫌いのみで評価することに終始しがち。ここでは、あくまで論理を検証するのが目的なので、最終形のあり方は設計者の価値判断の結果として尊重する。学生に対して「もっとほかにあるんじゃないか」「これでいいのか」というコメントは禁止。
(3)は後半の討議。課題はあくまで「設計プロセスの設計」なので、最終目的は設計プロセスについてそれぞれがある知見を得ること。そのために、参加者全員で、課題を振り返り、批判的に検証する。
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講評会はグループ毎に講評者全員で1つだけその場で発表作品を選び、発表させ、気になった作品にコメントを残す方式。実施コンペの公開審査等でも、こういうふうに類型化してそのなかでいいものを選び最終案を競うパターンが多いが、今回の方法はそれに似ている。
個人的にお願いをして、ゲストに松川昌平さんに来て頂いた。松川さんは慶応大学と東京理科大で「関数空間 algorithmic space」をテーマにとてもコンセプチュアルな授業を展開している。慶応の授業には毎年最終講評会に呼んで頂いており、継続的に観察させて頂いている。視点や問題意識を共有しているからこそ、いい比較ができるのではないかと考えた。
前半の講評会は淡々と進む。参加して下さった青木茂さんを始め、ゲストの方々も「プロセス」を評価するというルールを徹底させて頂いたのでコメントの水準が揃い、議論の生産性が上がる。なお、パースやダイヤグラムは一切議論の対象とせず、設計プロセスの妥当性のみが審査される。
後半は、前半の講評会で出たいくかの問題を整理し、討議。各問題には提起した人の名前が付いている。
(1)深尾問題=恣意性問題「面白いという価値判断はどう扱われるのか」
(2)赤崎問題=論理性問題「建築の形態と意味を合わせて考える必要はあるのか」
(3)佐藤問題=偶然性問題「フェテッシュ(自らの嗜好)の取り入れ方をどうすべきか」
(4)永井問題=線形性問題「ジャンプ、迷走はプロセスにおいて許容されるか」
(1)は設計者の主観的な気づきはむしろ奨励される。ただし、プロセスに回収する
(2)は形式的な水準に限るわけではないが、それを中心に観察したほうが論理性そのものを表現しやすい
(3)はあってもよいが、案を拘束しないようにする
(4)もむしろ奨励されるが、ジャンプした後はその「意味」をよく考え、論理的手続きの連続として示す手腕が必要
一通り議論が巡ったところで松川さんに「今日一番議論したいことを言って下さい」というと、(いつものように)松川節が炸裂!滔々と藤村批判を繰り広げ、「学生はどう考えているのか知りたい!」と問う。本気の論争が始まる。
松川さんの批判は「超線形プロセスは『1つの可能性』しか検討していない。あらゆる可能性を検討した上で淘汰されていくのが論理的に正しいのではないか」というもの。
今回の課題は、ボリューム→内部プラン→家具→構造→家具の向き→屋根・開口と検討する順番をあらかじめ決めていた。その週で検討する水準は決まっており、一通りエスキスチェックした後でどんなことをフィードバックすればよいか、共有しながら進めた。
松川さんは例えば6つの水準で3通りずつ選択肢があるのなら、3の6乗=729通りの組み合わせがあるはずで、それを全て試し、比較しないと、正確な淘汰が起こったとは言えない!と主張する。
僕が(いつものように)「松川さんの言うことはメタフィジックスとしては正しいが、多くの可能性を試すには時間的な制約もあり、フィジカルには限界があるのではないか」と反論すると「それはコンピュータを使っていないからだ」という。
念のために補足すると、僕は松川さんの主張についてはこれまで散々議論して来たので100%理解していると自負している。僕の提唱している手段には物理的な限界があることは十二分に承知しているし、松川さんの主張は論理的に100%正しいと思っている。しかし、いくら松川さんの方法論に論理的な正しさを感じても、実務的、教育的な現実とのバランスを考えると、限界を感じてしまう。僕はそのことをずっと主張しており、これまで議論は平行線を辿ってきた。
松川さんの思考はあくまで「科学」のメタファーであり、「設計」をあくまで理論のモデルとして捉えるが、僕はあくまで「政治」のメタファーであり、「設計」を意思決定の手段として捉える。その違いが出ている。
ざっくばらんに言って意思決定は「科学的」ではなくても、合意が形成されればそれでよい。僕は、あるプロセスがどんなに恣意的に見えても、手続きがあり、様々な外部が内部化されていく批判的、検証的、分析的なプロセスさえあればそれでよい、と考える。
松川さんは「科学者として」その態度が許せないらしく、毎回同じことを批判して下さる。もうそこはいいではないか、降参しているのだから、と思うが、決して許してくれないw。
本気でディベートしている僕らを見て、学生は何かを感じ取ってくれただろうか。僕に付こうと、松川さんに付こうと、そんなことはどうでもいい。自分たちのやっていることの意味を理解し、自分ならばこう考える、と主体的に建築を捉えるようになればそれが成果である。
最後に深尾精一先生の総評。「70名の学生がひとりの脱落者も出ずに、最後まで参加した。しかも、全員が最後まで残って熱心に討議に参加している。教育方法として素晴らしい」とコメントを頂く。
「全員が」脱落せず、面積や構造、家具寸法や屋根といった建築的に必要なほぼ「全ての」エレメントを取りこぼすことなく、図面にまとめられていることはこの手法の特徴ではないかと思う。図面の精度等、表現力に個人差はもちろんある。しかし、学生たちが主体的に自分のやっていることを自分の言葉で語ることができるようになることは成果として大きい。
むろん、この課題の手法が建築の全てではない。だから、次以降の課題でこの手法を適用する必要はない。ただ、この課題を通じて、建築の問題として考えるべきことは何か、設計の作業として具体的にどんなことをしていけばいいか、より明確にイメージできるようになるとすれば、よい影響を与えるのではないだろうか。
かなり実験的な課題ではあったが、深尾先生、助教の猪熊純さんの協力もあり、期待以上の成果を得られたことをまず感謝したい。金沢から駆けつけてくれた松川さんを始め、ゲストに来て下さった青木茂さん、古澤大輔さん、門脇耕三さん、そして何よりも、毎回いつも楽しそうに盛り上がって議論に参加し、様々なことを教えてくれた参加者の学生たちに感謝したい。彼らの最終レポートを読むのが楽しみである。
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6日、慶応大SFCキャンパスにて、松川さんのスタジオの中間講評会があった。今年はいつもと違い、SFCと理科大の合同である。松川さんはSFCに加え、昨年から理科大工学部でも教え始め、ともに「関数空間」の課題を出している。
今年はSFCと理科大が合同だったことで、気がついたことがあった。SFCの学生の発表を聞いていても、アルゴリズムの説明はあるが、設計プロセスのイメージがないため、イマイチピンとこないことが多かった。ところが、理科大の学生は一般的な意味での建築設計を学んでから参加しているため、設計プロセスのどの部分でアルゴリズムを使うか、という分析が可能なのである。理科大の学生がSFCの学生に比べて決して設計の完成度が高いわけでも、建築の知識やセンスに優れているわけでもないのだが、理科大の学生の発表になった途端に設計のイメージが湧いて来たのである。
理科大生の発表を聞いていると、アルゴリズムの使い方には大きく言って幾何学生成に特化した「パターン型/モヂュール型」と、所与のイメージにアルゴリズムで根拠を与えるような「モチーフ型/裏付け型」があった。
ただ、SFC、理科大に共通して、プログラミングをする前の思考の整理がうまくいっていないのか、想像力の問題なのか、学生たちの提案はグリッド、サークル、キューブ、ボロノイ図の4つのパターンにほぼ収束している。そして、ほぼ全ての案が平屋、ファサードなど個別の自律的なエレメントのデザインに終始しており、関係性まではデザインできていない。全体として現時点では「建築のイメージ」にふさわしい複雑性、全体性を構築しようとしている提案は皆無に近かった。
「建築のイメージ」とは何か。昔ベルラーへで聞いた哲学者マヌエル・デ・ランダのレクチャーで、彼はこう主張していた。
グレッグ・リンら、いわゆる「ブロッブ・アーキテクト」は、環境を構成する因子から定量化可能なものを抽出し、プログラム言語に置き換えて形態を生成しようとした。ところがその形態は「建築らしく」なかったために、ただの形態になってしまった、すなわち「哲学」がなかった、と。
建築も音楽も、デジタル化が進んでいる。ただ、MIDIデータにパターンを与えても「音楽」にならないように、CADデータにパターンをいくら与えても「建築」にならない。単なる「CADデータ」を「建築」にするもの、それが「建築とは何か」という思考、すなわち「哲学」なのだという。
同じことを僕は松川さんや、松川さんのスタジオを履修する学生の作品に対してずっと感じて来た。彼や彼らの作品には、幾何学のパターンはあるけれども、デ・ランダがいう「哲学」、つまり「建築らしさ」がないために、形態が「建築」として立ち上がっていないのではないか。もちろん、幾何学のパターンが切り開く建築のイメージがあることは想像できる。だが、そのアイディアが全体の統合というよりも部分のパターン生成や検証作業に留まっているうちは、それを「新しい建築」と呼ぶにはまだ飛躍があると言わざるを得ない。
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松川課題が現時点で抱えている限界を乗り越えるために、最も批評的な課題が、首都大の藤村課題である。
僕は、デ・ランダのいう「哲学」、すなわち、どの水準で/どの順序で/何を検討すればただの形態が「建築」になるのか、を知りたいと思ってきた。そこで今回の課題では、学生の集団をいわば「設計マシン」のような機械に見立て、何をどのように指示すれば「建築」が立ち上がるのか、検証しようとした。
まず、検討の水準としては、(1)ヴォリューム、(2)内部プラン・家具、(3)構造、(4)家具の向き、(5)屋根・窓を挙げ、番号の順序をたどった。最初に「ヴォリューム」を抜きにして形態や空間のイメージを膨らませてから最後に検討すると、だいたいスキーム自体が崩壊する、というように、なるべく制約の多い順から検討する必要があった。これはうまく行ったと思う。
ただ、(1)ではまず、面積と高さ、庭と駐車場の位置、敷地の境界線との関係などが主な境界条件となることを教え(=入力)しなければならなかった。(2)では家具の寸法、家具と家具の隙間の寸法を教えなければならなかった。(3)では構造芯の取り方と敷地境界線の関係を教えなければならなかった。(4)では家具に向きがあることを教えなければならなかった。(5)では屋根の形式、窓の作り出す形式を教えなければならなかった。
(4)の段階以降では、それまでに検討して来たボリューム、構造芯、家具の向き、屋根や窓などを駆使して、「中心をつくる」ことを教えなければならなかった。僕は「中心化(センタリング)プロセス」と勝手に呼んでいたが、どこかに中心をつくることで設計の「主題」を浮かび上がらせた。すると、不動産屋の間取り図みたいだった図面が、急速に「建築」の図面になっていくように進化した。
つまり、設計プロセスのなかで検討された「検討の水準」「検討の順序」「境界条件」「中心化」が、「建築らしさ」を構成する「哲学」として浮かび上がって来たのだ。例えば、松川課題の履修者がこれを身につければ、彼らの限界は自ずと可能性に変わっていくはずだ。
現状では、藤村スタジオの提案には複雑さを構築する「建築」のイメージがあるが、「淘汰」を再現する科学的なプロセスがない。松川スタジオの提案には論理的な淘汰のプロセスはあるが、建築のイメージがない。ただし、両者とも技術的な問題なので改善の余地は有る。今後何をすればいいのかは、今回よくわかった。
建築的思考の基本に徹する藤村課題は初等教育向けだが、プログラミングの習得を同時進行させる松川課題は高等教育向けである。松川さんといろいろ意見交換させてもらった結果、両者をハイブリッドさせればよい、というのがさしあたっての結論である。すなわち、前半を藤村が、後半を松川さんが担当する。現代的な設計理論、コンピュータ・アルゴリズムの建築設計への応用について考える上で、最強の教育プログラムではないかと思う。いつかどこかで実現したい。
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修了後、湘南台で朝まで議論。今年からは僕も授業を持つことで、相互に批評ができたのが最大の収穫だった。このやりとりを通じて、今後、取り組まなければならない問題にひとつの明確な補助線を引くことができたように思う。立場やアプローチは異なるけれど、いつもとことんまで議論してくれる、松川さんには感謝している。
追記:松川さんも今回の首都大とSFCでの講評会について書かれています。
首都大 藤村スタジオ最終講評会とSFC+理科大 松川スタジオ中間講評会(000studio/memorandum)
ここで学んだことをフィードバックして、新しい設計教育のあり方を示していきたいと思う。設計教育のあり方が変われば、長期的に見て世の中の建築のあり方が変わっていくことに繋がるはずだからだ。
fujimura