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夢と現実、学生と社会人、ビジュアルとマニュアルのあいだ

16日、理科大エスキスチェック。淡々と模型をバージョンアップさせて来ている人もいるが、「家具」のフェイズになって足踏み状態となる者も出て来た。

よくCADだと寸法が身に付かない、と言われるが、これまでイマイチ理解できなかった。コンピュータ=ヴァーチャル=寸法感覚の欠如、というのはいささか図式的すぎるではないか、と思っていたが、理科大の学生を見ていると、本当にそうなのでびっくりしている。

個人の能力もあるだろうが、昨今はゆるゆるの平面に家具と洗濯物と植木鉢をばらまくのが流行だということもあり、寸法で空間を構築していく設計のイメージがそもそも湧かないらしい。

コンピュータ世代にとってそれは深刻な問題のように響くが、自分の経験に照らしても、単にいくつか基本的な寸法を覚えればいいだけの話で、問題はそこまで深くない。コンピュータ化と寸法感覚の欠如は直接的には関係なく、単にコピペが簡単に出来るので自分で寸法を入力しなくてもよくなり、誰かからもらった家具データをとりあえず並べる、ということが起こりやすい、というだけのことである。どちらかというとGUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)やマウスのせいである。

データの複製コストが下がり、異なるバージョンを出しやすくなったことはCAD化の最大のメリットのひとつではあるが、教育レベルではその部分を注意深くフォローしておかないと「製図」にならないということがよくわかった。逆に言えばそこさえ改善すれば図面が見違えるように濃密になるということも首都大の授業で検証できたことである。

なので、自分のスタジオでは毎回、学生ひとりひとりに「これ、何ミリのつもりで描いたの?」とひとつひとつ質問し、チェックすることにしている。それでその人の寸法の感覚や手抜き度合いが把握できるからである。こちらとしては、コピペを「摘発」することが目的ではなく寸法を覚えてもらうことが目的なので、その場で具体的な数字も確認しながら共有していく。

この日、最後に遠藤勝勧さんの本を見せたらいいリアクションだった。寸法はイメージという夢を壊すものではなく、寸法という現実をもとにイメージを膨らませる手がかりのようなものなのだ。その感覚が共有できるといい。

本来「設計」とは、現実を切り離して夢だけを語るのではなく、夢を切り離して現実だけを語るのではなく、夢と現実を繋ぐような作業なのではないか。面積、構造、寸法、形式といった建築的思考の諸形式は、それらをつなぐ道具になりうる。

そんなふうに夢と現実の関係について考えていたある日、上海の設計事務所に勤務するMY君が『1995年以後』のレビューを書いてくれたと連絡があった。

仕事としての建築(MY life)

さて本書は、仕事として建築を始めたばかりのボクにとっては、かなり刺激的なものです。

仕事として直面する建築は、大学(院)まで戯れていた建築とは大きく違います。
違うというか別ものです。

この違いは本当に興味深い。

お。

この違いをおもしろく感じる日もあればつまらなく感じる日もあります。
良い意味で違いを感じることもあれば悪い意味で感じることもあります。
この違いを早く知りたかったと思うときもあれば知りたくなかったと思うときもあります。

なるほど。

そんなこんなで少しずつ「仕事としての建築」を感じたり考えたりしていたボクにとって、いまこの本に出会えたことはとても大きな出来事でした。
タイミングといい内容といい、ん〜パーフェクト。

ふむふむ。

ボクと同じような境遇の若いみなさんに是非読んでもらいたい1冊です。

そしてみんなで議論しましょう。
議論のネタに最適です。

いいねえ!

しかも「超批判的青春驀進書籍!」って、なかなか笑えます。さすがMY君。

他方で、こんなリアクションもあった。

minori-minoryの日記

藤村さんの話は学科の友達ともよくします。難波さんとの対談もあったり、実作が出てきたりと、傍から見ていても今一番アツい若手の一人だと思います。

ふむふむ。

ただ、僕のような建築を勉強したての人間から見ると、どうも腑に落ちないところがいっぱいあります。

おっと。

ある友人も『Building Kってかっこ良くないよな。』って言っています。建築は外観だけではないとは思いますし、ぱっと見ではなく、じっくりと感じることの出来る価値感がBuilding Kにはあるのかもしれませんが、いかんせん無個性すぎて・・・

あれ。

社会的立ち位置が明確になりますが、若いのにここまでシステマチックな様子は、勉強し始めたばかりの僕からしたら夢がなさ過ぎて悲しくなります。

そうですか。

わざわざ完コピで引用してもらった挙げ句、「悲しい」と言われるとこちらが悲しくなるが、それはさておき、彼のリアクションは現状の藤村龍至系の言説に対する学生の平均的な反応かな、と感じるところもある。MY君の熱いリアクションと正反対である。

このことは『1995年以後』を始めとして、ROUNDABOUT JOURNAL関連の言説の響き方にも通じるものがある。

『1995年以後』はインタビュイを1971年生まれの藤本壮介さんを筆頭に、1983年生まれの大西麻貴さんまでに絞ることで、「世代」というコンセプトをはっきりと打ち出した。そのことが読者の反応の違いをくっきりと浮かび上がらせてもいる。

まず、読者を以下のように分類する。

第1層(1970年生まれ以前)39歳以上
第2層(1971-1983年生まれ)26歳以上38際以下
第3層(1984-1986年生まれ)23歳以上25歳以下
第4層(1991-1986年生まれ)18歳以上22歳以下
第5層 異分野

第2層が本書に登場するインタビューの年齢層。第4層が学生。第3層はその中間で、就職を控えた大学院生か、就職したばかりでいろいろ考えているフレッシュマンたちである。

現状のリアクションはだいたい以下のような感じだ。

第1,2層:「若手」という括りがひっかかって、斜め読み。
第4層:「社会との関係」が主題なのであまりイメージできず。
第5層:テクニカルタームが多いので少々リーチしにくい。

一番反応が熱いのがMY君のような第3層で、ブログ等で頼まれてもいないのにわざわざ引用して熱心にレビューしてくれているのはほとんどこの層である。TEAM ROUNDABOUT自体、社会に出たばかりの頃の学生と社会人、教育と実務、夢と現実のギャップについて悩み、議論したところから活動をスタートさせているから、よくも悪くもそういう年代に突出して響くメッセージとなっているのだろう。

ポテンシャルのありそうなのは第5層で、『思想地図』『ユリイカ』を通じて藤村龍至の論文を読んだ人が流入してくる可能性がある。固有名詞とテクニカルタームさえフォローできれば「1945/1970/1995」というフレーム自体は社会学や批評の分野の方が共有されているし、テーマ自体も情報化と郊外化なので、馴染みやすいはず。

よくも悪くもターゲットを絞った本になったとは思うが、何事も最初は1点突破しないことには始まらないので、試みとして悪くなかったと思っている。卒業設計のお祭り騒ぎを終えて、将来を考え始めた人、就職して、考えさせられることの多い23-27歳くらいの人には時代を超えて刺激する本になるのではないか。

1995年以後―次世代建築家の語る現代の都市と建築

リアクションを見て、次の攻め方も見えてきた。作品集(学部生のネタ)とマニュアル本(院生や実務のネタ)の間で、全部の層を同時に刺激するような本をつくりたい。

ところで刺激的な本と言えば、売れ行き絶好調という『思想地図 vol.3』の、建築学生における浸透率はまだまだ低い。理科大で『思想地図』を買っている人は現在のところ7名中1名のみ。藤村スタジオを履修していて、毎週散々呼びかけられてもこの反応だから、建築学生でこれを買って読んでいる人はまだまだ少ないのだろう。せっかく哲学、批評、文学、社会学、情報社会論、建築学を横断する、「スーパーフラット」以来の大きな共振現象が今、まさに起きつつあるというのに。

この本を買っている建築関係者はもともと思想系の本をよく読んでいたり、鈴木謙介さんのラジオのリスナーだという人が多い。つまり、建築学生が『思想地図』を買うとすれば、もともと読者だった人で、一般の建築学生にとってはビジュアル・ソースにならないし、実務家にとってはマニュアルにならないので、新たな購入動機になりにくいようだ。逆に思想系の読者が建築に興味を持って建築関係の本を買うきっかけになる可能性は高い。

20日、某研究会で濱野智史さんと会う機会があった。少し話したのだが、28日に青山ブックセンターで開かれる濱野藤村対談はかなり熱くなりそう。しかし、先ほどの理由から想像するに建築の学生はあまり来ず、藤村という新しい書き手と濱野さんの絡みに興味を持った思想地図系の読者のほうがたくさん来てくれるような気がする。

僕としては、建築関係者のほうにより多く来て欲しいと思っている。「アーキテクチャ」は「スーパーフラット」以来の共振現象であり、しかも「建築」が主題になっているという前代未聞の事態である。「建築」が時代を語るコンセプトになりかけているときに、肝心の建築家がその議論に参加していないのでは少々寂しいではないか。

「アーキテクチャ」そのものはビジュアルでもなければ、マニュアルでもない。コンセプトである。夢を見させてくれるわけでもなければ、すぐに現実に役立つものでもない。まさに夢と現実、学生と社会人、ビジュアルとマニュアルをつなぐものなのだと思う。そしてそれは、いつの時代にもあるものでもない。時代の節目にふっと現れるもので、目の前に現れたときにつかまなければならない。逃せば溝が深まるし、つかまえられればその溝を埋めることができる。

だから私たちは、このコンセプトをつかまえようと、議論を繰り返すのである。28日も、その意味で重要な機会になるだろう。だから少々課題の締め切りが迫っていようが、せっかくの休日に時間がなかろうが、この時代の節目に建築に関わることの意味を見出したいならば、この機会を見逃す手はないのである。読者諸兄の行動に期待したい。

fujimura

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2009年06月20日 02:06に投稿されたエントリーのページです。

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