「ARCHITECT 2.0」展、「生成の世代」展ともに終了しました。ご高覧頂いた皆様、どうもありがとうございました。
「生成の世代」展最終日の29日、清澄庭園でトークイベントが開催されました。
生成の世代展(arclamp.jp アークランプ)
生成の世代展、トークイベント(0829part-2)
"ARCHITECT 2.0-WEB世代の建築進化論"+"生成の世代"(archi_diary)
arclampの鈴木雄介さんはiPhoneでtsudaってくれています。
*(以下、引用)
清澄庭園の大正記念館なう。「生成の世代」のトークイベントです。
藤村さん。出展依頼した基準は設計段階にプロセス論があるか。設計の初期段階からカタチが生成されていく過程にコンセプトがあるか。
藤村さん。テーマは「模型の意味」。シュミレーション技術(BIM)の発展で模型の意味がなくなっているのではないか?
藤本さん。模型は可能性にカタチを与えたもの。見た人が、模型は全体のコンセプトを俯瞰でき、さらに建物が建ったときの体験を試せる。設計する立場としては、スタッフで共有して育てるもの
中山さん。模型はポータブル。昔、文庫本という形態が発明されたことで新しい文化を生んだ。同じように模型はそのものがメディアになりえる。周りにある空間をシフトさせる力がある。
中村さん。模型は、ナニカを発見する道具。(※中村さんはホントに寡黙なのです)
吉村さん。模型は設計過程の思考プロセスを固定してあるもの。スケッチとしての価値。一方で模型みたいな建築は作りたい。模型はエッセンスを取り出して抽象化する過程。それを実際の建築物でもやりたい。
dotさん。ひとつの模型をいじり続けるスタイル。後半は現場への導入過程としてとらえている。模型そのものを完成としたスタディもやったが、その場合は、模型が現場。
藤村さん。藤本さんは事務所空間全体が模型化している。模型依存症。(※他の人の講評は書ききれず)
oO(イロイロあるなぁ。スタディ。思考実験。ユーザーに対して俯瞰と擬似体験を提供する、メディア。あと量もばらばらなのがおもろい。藤村さんの議事録と言う表現のおもしろい。 )
藤村さん。次は模型を作る量について。
dotさん。一つだけ。積み重ねていく感覚
吉村さん。プロジェクトによって思考のキッカケは違うから作るときと作らないときがある
中村さん。あまり作らない。基本的には頭の中。頭の中だけで作れないときは「作りたいという」欲求にかられて作る
中山さん。少数派。ただ大量にあることでの楽しさはある。同じ物事のたくさんの切断面、あるいは表現の確認という側面はある。それ自体が楽しくなってしまうので注意している。
藤本さん。初期にたくさんのアイデアを形式化したものを大量に並べたい。カンブリア期の三葉虫。案の本質を探るためにやる。ただのバリエーション出しは嫌い。それは価値判断の放棄。模型と一緒に言葉を大事にしている。模型に言葉を与え、それが次の模型を産む。ただし1/20は1つのものをいじり続ける。
藤村さん。設計は進化させないといけない。単純なルールで模型を作っていることで、ヒトがアルゴリズム化されていく。googleのページランクのように。
dot。一つの模型にこだわるコトで、いまの思考状態がわかる。単純なルールをあたえて集合知モデルとして一つの模型にするというのもやっている。
吉村さん。プレゼンで本をつくるのはオランダ人向き。線系に説得するのは日本人にむかない。(※オランダは世界的に有名な建築家が多い。)
中山さん。たとえば本にはめくる快感がある。残りページ=分かっていないことがなくなっていく快感。一方で巻物的な俯瞰から入って、そこから部分の詳細に向かうというものもある。模型は後者的。全体が一気に入って来る快感。素敵な違い。
藤村さん。ブック型とマップ型と呼べるのでは。スタディにおける時系列の解釈の仕方ではないか。建築家の固有性。
藤村さん。模型はマテリアル性が強い。作ることそのものが盛り上がる。都市にも模型性がある。ここは大事。建築の本質ではないか。
模型には思考実験的なものと、もの作りのためのものがあるのでは。それがスケールの違い。ただし、簡単に分断できないはず。またプレゼン空間にも規定される。形態によって共有するスピードが違う。
藤村さん。設計プロセスを盛り上げる手法として、模型でも、ドローイングでも、BIMも個性ではないか。模型がマテリアルで身体性があり、BIMにはないということはない。
(※このあとQAで、模型を作るのに好きな素材は何か?好きなスケールはあるのか?アートギャラリー展示はどう感じたか?などがありました。それぞれ面白かった)
さすが実況中継だけあって正確。ありがとうございます。ブログの方のレポートも充実しています。
twitterはレクチャーのあり方を変えそうですね。
内容は後日きちんと振り返りたいと思いますが、個人的にはなかなか手応えを感じたイベントでした。打ち上げの席で、家成さんに「最初に大阪のApple Storeで一緒にレクチャーしたときに比べると龍至君の成長ぶりに驚いた」と言われましたが、藤本さん、中山さん、中村さん、吉村さん、dot architectsの皆さんとも、何度もイベント等に出て頂いたり、ご一緒させて頂いているので、表面的な批判でプロレス的に盛り上がるのではなく、軸を立てて差異を明らかにし、課題を共有する、という議論の基本が出来てきたような気がします。
主催者や出演者だけでなく、観客の皆さんも、質疑応答やブログの反応を見る限り、具体的で建設的な反応を書いてくれる人が少しずつ育ってきて、一緒に進化しているような感覚はありますね。
結局のところ、設計と同じで、議論の場もコミュニケーションのプロセスが重要で、漸進的に成長して行くことが重要なのだと思います。だからこそ定期的に議論の場を設ける必要があるし、そのことが僕らを成長させる確実な方法なのでしょう。
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漸進的なコミュニケーションのプロセスと言えば、先日イベントに呼んでくれたY-GSAほかに所属する403 Architectureのメンバーと飲む機会がありました。先日の彼らのイベントは昼間だったのと僕の方に用事があり、打ち上げが出来なかったため、改めて機会を設定してもらったもの。
近況を聞いているうちに進路相談となり、僕が20代で経験したことの話になり、いつのまにか批判的工学主義の話になり、最後は超設計プロセスについて質問攻めになり、執拗な質問に延々答えているうちに朦朧としてきて、スリープ機能が働き、若干バカにされつつ答えていると、いつのまにかこちらの本気度合いが伝わっていて、熱い感じで終わる、というパターン。
藤村龍至という人(deline)
メディアでのお固い発言と同じことを言っているのに、実際の氏は僕たちの目線に驚くほど近い。それが不思議で仕方がない。
彼は自称ある意味邪道で横入りだし、既にメディアを牛耳る勢いだし、だから上からも下からも横からも一杯批判されてるし、その数だけ激しい賛同を得ているが、学生からすると、そんな藤村龍至を熱く語ることほどダサイことはないけれど、それでも、彼との議論は心底楽しかったし、救われた。
相変わらず言いたい放題だし、メモも若干不正確ではあるが、この素直さがいいのでは。結局ある程度の時間を掛けて意見交換を繰り返せば驚くほど素直にこちらの主張を受け入れる。こういうコミュニケーションのプロセスは楽しい。
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コミュニケーションのプロセスと言えば、先頃、首都大と理科大の学生のレポートを採点した。藤村課題では、設計の後にレポートを課し、設計と同等に評価している。「設計プロセスの設計」をテーマにしている以上、設計を終えた後のフィードバックこそが重要であるという考えに基づく。
とはいえ、首都大の70人の文章を読むのはひと苦労。読みながら、顔と作品が思い浮かぶ。理科大は7名なのですぐ読み終える。大量のレポートを読み終え、おおまかに分類するとだいたい以下のようなカテゴリーが浮かび上がる。
表面的な批判・理解不足=C
自分の言葉で語っているもの=B
分析と位置づけのあるもの=A
Cは自らの理解力不足・努力不足を棚に上げて「建築はそういうものではない」などと書いているもの。遅刻欠席が多い人などに多い。Bは自分の理解したところをきちんと書けている人だが、僕が言っていることを単純にトレースしただけだったり、よくある反対意見に終始している人が多い。ほとんどはこのカテゴリー。Aは自分の思うところをまず言葉にし、さらにそれと対立する意見や具体例などを挙げて相対化し、超線形プロセスや自分の作品を位置づけているもの。
素晴らしいことに、学部3年生でもAに到達する人は一定数いる。そのうちのひとりはかなり秀逸な「超線形設計プロセス論」論を展開しており、読んでいて感動した。じっくり対話を重ねて行けば、ここまで得るものがあるものかと。
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得るものと言えば、先日、日大の斎藤先生から「日大の学生がレポートで藤村のことを書いているやつがたくさんいたから見てやってくれ」と、レポートの束を渡された。
日大の大学院の授業で、ARUPや小西さんや大野さんのレクチャーに混じって、一度レクチャーをさせて頂いた。構造の学生が多かったということもあって、レクチャーではイマイチ反応が薄く、少々反省した記憶があるが、レポートを読むと確かに47人中24人が藤村論を書いているではないか。
短いレクチャー時間のなかで挑発的なレクチャーをしたせいもあって、大半は「超線形プロセス」の原則を抜き書きし、「『ジャンプしない』というが、ジャンプが必要なのではないか」などと、挑発を真に受け取ってベタな反論を書いているというパタン(=B)に留まっているが、こちらの意図を正確に読み取って自分の考えを述べている人(=A)も一定数いる。
倉方俊輔さんに「学生にレポート課題を出すと必ず何人かは藤村論を書こうとするが、ほとんどはありふれた批判。ベタな反論に留まるか、きちんと批評できるか、学生の実力を判定するのにちょうどいいw」と言われたことがあったのだが、なるほどこういうことですか。
「挑発」は関心を持ってもらうにはよいが、度が過ぎるとそこばかりが伝わってしまう。そのさじ加減は今後の課題としたい。
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反応といえば、最近もいろいろな反応があったので紹介しよう。
<某社会人>
批評のメタレベル化という逃げ道(歴史を知らない歴史家のぼやき)
藤村龍至の論文であるが、例によって「批判的工学主義」を謳っていた。あらためて「そういうことをいっていたのか」と納得したが、でも、それってあたり前のことで、大なり小なり、デザイナーはみんなやってるんじゃないかなって思ったりする。
この本を書店で手に取ったのは、現在議論されている建築批評の現状を知りたかったからだが、なんとなく自分が把握できる程度で安心感はあったが、お先真っ暗という感も否めなかった。
表面的な批判の典型例。ただ、実際にこのような調子で管を巻く人は多いのだろうと推察される。
しかし、このように「ぼやいて」みせたところでアトリエ派の給料は上がらず、組織・ゼネコン派の仕事は面白くならず、業界全体が縮小して行くだけであることに、彼もやがて気がつくだろう。そこで何をなすべきか考えるとき、思想地図論文にむしろ未来を見出すはずだ。自分の仕事を社会的に俯瞰して考えられるようになるには就職して2,3年はかかるだろうが、思考を停止しないで欲しいと思うし、こちらももっと呼びかけなくてはならない。
<某大学院生>
いろいろ雑記(Architectural Creation Garage)
かわいいドローイングや模型が錯乱する感性派と、社会学的な理論武装をする理論派。他にも色々見方はあるかもしれないけれど、いずれにしても何だか両方とも妙に息苦しくて居心地が悪かった。
書かれているものをとりあえず読み込んではくれているが、シラケてみせたような結論部分がよくない。
ただ、こういう感想を持つ人が多そうということもなんとなくわかる。なぜ私たちが極端な理論武装をしてまで「感性派」に対するカウンターパートをつくろうとしているのか、もっとわかりやすい説明をする必要があるし、そういう見方を誘導する工夫が必要だということを教えられる。
<某学部生>
建築以前以後 生成の世代(koichi_katayama blog)
よく方法論の話をするのは当り前であるという話はよく聞く。そして線形的な設計をするのは建築家は当り前のようにするはずなのに藤村さんはあえて、狂ったように(笑)超線形の模型たちを残している様を見ると藤村さんが無言で最大級の皮肉を建築界に向けて発しているようにしか見えない(笑)
首都大の受講生である。こちらのいうことを理解した上で、なんとか乗り越えよう、批判しようとしている。何が大事で何が変えたいのか、価値が定まっていないので(学生なので当然だが)文章の論旨はやや不明快だが、表面的な批判ではなく自分の言葉で考えようとする姿勢がにじみ出ているのがよい。
先ほどのカテゴリーで言うと、<社会人>氏はC、<大学院生>氏はB、<学部生>氏はAである。コミュニケーションのプロセスを共有して行けば、これだけブログの書き方も変わるということか。
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「ARCHITECT 2.0」展も、僕らとしては渾身のコンテンツを作り上げたつもりであったが、反応はまっぷたつに分かれた。文章をよく読んでいる人はキャプションを良く読み「意欲的だ」と言ってくれるが、あまり読まない人は「いくつか面白い模型はあったが、あまりよくわからなかった」という。
作品の背景をよく読んで「よくわかった!」「感動した!」というコンテクスト型の人がいる一方で、まるで果樹園に行っていろいろなぶどうをつまみ食いし、「このぶどうはうまい」とか「あのぶどうは酸っぱかった」とか言っているかのように作品をちょこちょこっと見て帰るつまみぐい型の人もいることを、冷静に分析する必要があるだろう。フリーペーパーやトークイベントのほうはスピーカーもモデレータも観客も、どんどん上手くなってきて、共に育ってきているような感覚があるが、展覧会はまだまだ我々の出し方も、オーディエンスの受け取り方も、まだまだ未熟だ。
改善の余地はいくらでもある。例えば、展示会場でのアンケートも、「手紙だと思って書いて欲しい」と呼びかけて以降、ポジティブで具体的なメッセージが増えた。ブログのレポートと同じで、見方が分からずに不満だけ述べるような人にこそ、呼びかけが必要なのだと思う。
『ROUNDABOUT JOURNAL』もトークイベントも、内輪ウケだとか誰も読まないとか無意味だとかいろいろ言われてきたが、その度に改善を続け、対話を続けてきた。展覧会を開いて、いくら気合いを入れてキャプションを書いても誰も読まないのならば、どうにかテキストを読ませ、建設的な反応を引き出すような工夫を考えるのもまた楽しいではないか。
とにかくメッセージを大量に発信すること。そしてその反応を読んで、メッセージの出し方を工夫を重ねること。そうやって発信側も受信側も工夫を重ねて行けば、少しずつ状況は改善し、私たちのメッセージも進化するだろう。
祭りの後で、進化を誓う朝なのであった。
fujimura