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2009年10月 アーカイブ

2009年10月03日

建築夜楽校2009 第1夜を終えて

1日、恒例の「建築夜楽校」のシンポジウム「データ、プロセス、ローカリティ」の初日「データとプロセスの関係を考える」が開催されました。

五十嵐さんのカルチベートトークでもtwitterが活用されて盛り上がっていたので、ハッシュタグ(#yagakkou)を用意し、観客に参加を呼びかけました。
twitter--#yagakkou

「こたつ」でも活躍していた石川君が実況してくれました。偉いぞ。
建築夜学校2009 第一夜 前半部分(architecture_database)

議論の内容は上記のtwitterほか、リンク先を追いかけて頂ければ幸いです。

ぽむ日記(10月2日)
「建築夜学校2009」と藤村龍至さんの3つの力(建築浴のすすめ)

建築夜学校第一夜レポート(deline)
建築夜学校第一夜レポ 前編(koichi_katayama blog)
建築夜楽校第一夜(ARCHI BLOG)
データを誰が集めるか(eureka)
建築夜楽校2009第一夜・感想(東亜重工)

ここではモデレータとして感じたことを記し、次週に繋げる問題を提示しておきたいと思います。

ショートレクチャーをお願いした3人のプレゼは、とにかく刺激的でした。

まず中山英之さんからは「2004」の設計プロセス。データに対する観察力(クローバーを発見したり、室内に印象的なシーンをたくさん描いたり)と、アルゴリズムに対する構想力(それを見慣れない形で住宅に再構成する)に分けられる。少女っぽい趣味とか、話の巧みさも魅力的だが、それ以上にプロセスが面白い。以前から中山さんにプロセスの話をしてもらいたいと思っていたが、ここではどんぴしゃにはまる。

小嶋一浩さんからは「宮城県立迫桜高校」と「スペースブロック・ハノイモデル」の話をして頂く。前者は教育>政治>建築と設計が濃密に進化していくプロセス。後者は大学院生が長い時間を掛けて設計されたことで固有の設計条件が抽出され、極めてgoogle的な集合知的なプロセス。

山梨知彦さんからは「ヒューリスティック・アプローチ」と題して技術的前提としてBIMのご紹介と、「2.0」展でも話題となった「w-project」と各誌の表紙を飾っている「木材会館」の話をして頂く。大量の変数を効率的に扱い、創造的な枠組みを抽出するための方法論を披露して頂く。

後半の討議は、コメンテータに江渡浩一郎さんと難波和彦さん、モデレータに濱野智史さんに加わって頂き、「データとプロセスの関係」、特に設計の情報化をめぐって「個人」や「経験」をどう位置づけるかについてテンションの高いやり取り。

ここからは感想を。

技術的な前提として、BIMのような設計の情報化ツールがこれから普及して行くのは間違いがない。かつて90年代に2次元CADがごく普通に浸透したように、アトリエ派も学生も、数年したらごく普通に3次元CADやBIMを使いこなすようになるだろう。それは時代の流れであって、いいとか悪いとかではない。

こうしたツールが可能にするのは、多くの変数を扱えるようになるということ。ユーザー参加やIT化、CO2排出量やエネルギー問題、セキュリティなど、扱うべき情報量が社会的にも、技術的にも増えてきていて、公共建築やオフィスビル、商業施設だけでなく、住宅ですらも多変量解析的、都市計画的になっているのは時代の流れであって、ひとりの人間が全体像をスケッチできるほど単純ではない。

だから建築家は皆、多くの変数を扱うことに慣れるべきだし、多くの変数を扱うことの面白さを表現するべきだし、そういう教育をするべき。BIMはそのための最適なツールのひとつである。現状、BIMを用いた建物が凡庸に見えるとしたらそれは構造的な問題ではなく、技術の移行段階だからであって、そのうち決定打が出てくるようになる、ということだろう。

BIMに関して言えば、今のところ、設計側でその最先端の位置にいるのが山梨さんのチームであって、その状況を追いかけているのが我々アトリエ派の立場である。

そのコンテクストで言えば、「大きければ大きいほどシミュレーションが正確にできる。すなわち、大きければ大きいほどサイトスペシフィックな建物が出来る。それが巨大建築の可能性である」という山梨さんの主張はとても刺激的である。この日のプレゼでは「アトリエの先生方はスタッフが徹夜してくれますから」とか、「3時間で設計したものが実際に建っています」とか、林昌二譲り?のヒール役を演じて下さったのだが、もうそんな悪ぶる必要はないくらい、ポジションが反転してしまっていると感じる。

つまり、かつてであればコンセプトをリードするのがアトリエで、組織側がこれを洗練させていた、と言えたのだが、技術への依存が高まる現代社会では、コンセプトを開拓しているのはむしろ組織側であって、アトリエ側はそれを洗練しているに過ぎず、コメントがヒール役のそれのようにならざるを得ない。中山さんの「シミュレーションは決定を先延ばしにするツールに過ぎない」なんて、あまりにも痛快で、かつての林昌二のようではないか。

BIMがひとつの可能性だとして、そのなかで発揮されるべきクリエイティビティにはおそらくふたとおりある。ひとつがデータに対する想像力。もうひとつはアルゴリズムに対する想像力である。

つまり、料理の美味しさは素材(データ)と調理(アルゴリズム)で決まるとして、BIMは「よく切れる包丁」みたいなもの(ツール)である。「包丁だけよくても素材や調理が悪ければ味は凡庸になるに決まっている」もしくは、「素材ばかり仕入れても、捨てることになるだけだから、必要なものだけ仕入れればよい」というのが難波さんの主張であり、ごくごく真っ当なご指摘である。

難波さんの主張を聴衆や読者が誤解しないように補足を試みるならば、googleを始めとする情報技術の浸透によりもたらされた新たな想像力は、「大量の変数を高度に処理すると、それだけで意味有る情報が取り出せてしまう」というものである。1970年代はあくまで机上の空論、メタファだったのが、1995年以後の社会ではそれが日常的に実装され始めてきた。

難波さんの主張はそうした工学的なアプローチを実践する立場に立った上で(ex.「箱の家」)、その方法論の限界を認識するというものであって、ゆめゆめ難波さんの首長を字義通り受け取り、「そうだ、やっぱり個人でスケッチとかして考えよう」と考えないようにして頂きたい。

ただ、ラストの方で江渡さんが「中山さんがこの世界に住んでもいいなと思えるようなツールを設計したい」とおっしゃって、なるほど、立場が違えばそういう発想もあり得るのか、とすごく興味深かった。

建築夜楽校で展開したい議論は、現代特有の社会的背景(ユーザー参加、環境問題など)や技術的背景(3次元CADやBIMなど)を前提として、(1)wikiやgoogleのようなプログラミングやwebの思想は建築に応用できるのか、できるとすれば、具体的にどういう萌芽があるのか、(2)共同設計やパタンランゲージなどかつてモダニズムが行き詰まった頃に盛んに議論された設計コンセプトや、模型や図面やスケッチといった設計ツールを、この文脈で読み直すことは出来るのか、そして、(3)その作業によって、具体的に何が可能になるのか、ということである。

こういうとき、やってはいけないのは、「スケッチは豊かでBIMは貧しい」というステレオタイプな議論である。同様に「BIMが心地よくてスケッチがむしろ貧しい」という単純な逆説もやってはいけない。単なる世代間論争になって不毛な対立にしかならないからである。一緒に第3項を考えるような雰囲気をつくらなければ議論が発散してしまう。

しかし、後半はなぜかそういう対立に陥ってしまったような気がして、軌道修正しようとついしゃべりすぎてしまった。飲み会で参加して下さった東浩紀さんからも「自分での主張したいなら講演会でもやればいい」とダメだしをされ反省。

いずれにせよ、パネラーの皆さんと素晴らしい議論を展開できたことをまずは素直に喜びたい。twitterで盛り上げてくれた皆さんにも感謝している。

第2夜の話題も多岐に渡ると思うが、個人的には以下のようなことを考えてはどうかと思っている。

-「ローカリティ」というキーワードは、「地域性」というより「政治性」の話になるのではないか。コミュニケーションとメディアの関係について生産的な意見交換ができればと思う。

-「美」について語らない。「美しい建築とはあくまで『結果』だから、『プロセス』なんて関係ない。結果を追い求めるしかない」みたいな議論は精神論にしかならないのでそこに終始するのは避けたい。

-公共建築をモノにするには、「美」よりも「公共性」を語れるようにならないといけない。第1夜で言えば小嶋さんの「迫桜高校」の事例が示唆的だが、政治的決定のプロセスにどう介入できるか、建築はメディアとしてのリッチネスが高いのだから、webよりweb的に振る舞える可能性がある。その意味で、「ハノイ」は極めてgoogle的であり、モデルとして示唆的である。

五十嵐さん、家成さん、井手さんの発表が楽しみだ。濱野さんや鈴木さんとももう少し作戦会議しておきたい。1日に参加できなかった人も、ぜひ集まって頂きたい。


fujimura

2009年10月14日

建築夜楽校2009を終えて--集合知形成のプロセスにおける建築的思考の可能性

8日、1日に引き続き「建築夜楽校」のシンポジウム「データ、プロセス、ローカリティ」の第2夜「プロセスとローカリティの関係を考える」が開催されました。

今回もハッシュタグ(#yagakkou)にて活発な意見交換が行われました。
twitter--#yagakkou

そして、今回も石川君が実況してくれました。実況芸がだんだん板についてきましたね。
建築夜学校2009 第二夜 前半部分(architecture_database)
建築夜学校2009 第二夜 後半部分(architecture_database)

議論の内容は上記のtwitterほか、下記のリンク先を追いかけて頂ければ幸いです。
今回もたくさんのレポが上がりました。

ぽむ日記(10月9日)
建築夜学校第二夜レポート(deline)
建築夜楽校2009第二夜(To scene Too good)

「データ、プロセス、ローカリティ」解題(kuro-nicle -chronicle-)
登山からピクニックへ | 建築夜楽校2009 第2夜
「町の自転車屋さん」との邂逅(ASD blog)

建築夜楽校2009第二夜・感想(東亜重工)
合意形成ツールとしての建築(eureka)

建築夜学校第二夜レポ(koichi_katayama blog)
建築夜楽校第二夜(ARCHI BLOG)
建築夜楽校:第二夜(post_tokyo)

会場外から

建築夜楽校2009(culAstu)
建築夜楽校2009第2夜のこと01/twitterの実況ログを読んで(建築について)
建築夜楽校2009第2夜のこと02/twitterの実況ログを読んで(建築について)

第一夜が基礎編だとすると、第二夜は応用編。いつもは2夜目になると動員ががくんと落ちるのですが、今回はほとんど落ちず、むしろ熱気は高まったように感じられた。

今回は五十嵐さん(北海道)、家成さん(大阪)、井手さん(福岡)と、あえていろいろな地域から建築家をお呼びしましたが、その狙いは下記の通り。

1. オーセンティックなローカリティが成立しない状況=郊外化した社会的コンテクストを浮かび上がらせること
2. そのような流動的な環境で、どうやって場所の固有性を浮かび上がらせるか、という方法論を提示すること

3人はその明快な設計論において、場所の固有性を浮かび上がらせる方法を持っている建築家だと確信がありました。

そのうえで、議論の設計コンセプトとしては、個人的な実践に見えるプロセス論を、より大きなコミュニケーションのためにどう使うか、という課題設定。その実践に最も近いところにいらっしゃる建築家のひとりが古谷誠章さんであり、建築の物理的限界を乗り越えるための方法論として鈴木さんや濱野さんの見解が必要不可欠でした。

建築家はどれだけの人とコミュニケーション可能なのか、と鈴木さんはあえて基本的な問いかけをしてくれました。壇上ではオープンエンドにすることや設計者と使用者が融合して行くイメージが比較的語られていましたが、それは実際には聞こえはいいけれども、終わりのないマラソンのようなもので、設計者にとってはなかなか過酷な環境のような気がします。人間が物理的な存在である以上、ひとつのプロジェクトに無限に関わり続けることは明らかに不可能です。切断が生じるのはやむを得ず、むしろその切断の仕方をどう変えるかを議論した方がよい。

その意味ではベタにWEB礼賛みたいな感じで議論がまとまったように見えたのは少々心残りです。希望が見出せる展開は、というと、それは以下のようなものです。

建築という意思決定システムをweb的に再編成し、ローカリティをあぶり出す装置として読み替える。ローカリティとは、コミュニケーションのプロセスとともに立ち上がるものであって、あらかじめそこにあるものではない。

つまり、ローカリティとは、あらかじめ目に見えているものというよりも、コミュニケーションを発生させることで初めて見えるものであり、ラディカルに言えば、ローカリティとは、設計作業のプロセスを発生させることで生成可能なものだともいえる。

すなわち、設計プロセスの設計の仕方によっては、コミュニティを検索エンジンのように用いることができ、ローカリティを検索結果としてシステマティックに得ることができる。そしてそのプロセスは同時に、コミュニケーションのメディアとしてのリッチネスも備えており、コミュニティの強化にも役立つ。

今回の建築夜楽校で立ち上がりつつあるのは、そういうイメージなのではないか。

建築はwebと比較してもメディアとしてのリッチネスが高く、人を動かし、一体感を生み出してしまう力がある。建築実務の経験者なら、規律訓練によって完全にコントロールされた工事現場の様子を思い浮かべることも可能でしょう。だからこそ、建築設計のプロセスをWEB的に読み替えるならば、社会的にはWEB以上にWEB的に機能するコミュニケーションのプラットフォームを構築することができる。それは建築の可能性と言ってよい。

五十嵐さんや家成さん、井手さんの作品をその文脈で読むことはなかなか難しいけれども、濱野さんとの議論で出てきた「人間をアルゴリズム化する」という機械と人間が共存するイメージを、もう少し膨らませて共有して行ければ、議論はまだまだ発展しそうです。

建築は今、コミュニケーション・メディアとしての可能性といった、その政治的な機能について議論することと、グローバリゼーションの渦中でスターシステムにのっとりアイコンをばらまいて行くこととのはざまで、大きく揺らいでいます。「アルゴリズミック・デザイン」というトピックも、都市のコミュニケーション・システムの内部に介入することができるのか、わかりやすいフォルマリスムやパターニズムに回収されるのか、実に微妙な時期にあり、前者のように理解しようとする人は希で、後者のようにベタに捉えようとする議論も多いです。

国内では、スター建築家を大胆に起用していた「熊本アートポリス」が「わたまち」へシフトしたように、バブル期にアイコンを大量にばらまいた日本社会も、バブル崩壊後の1995年以後は低成長型へとシフトし、建築のわかりやすいアイコン性よりも、コミュニケーションのプラットフォームになるような機能性を重視するようになるという流れはベースにあります。今回の夜楽校の議論に一定のリアリティがあるとすれば、そのコンテクストに接続しようとするが故でしょう。

他方、世界へ目を向ければ、猛スピードでアイコンを消費するグローバリゼーションの状況は加速し、データだのプロセスだのローカリティだのなどという繊細な議論はとても成立しなくなっていて、PLOTのように確信犯的にアイコンを量産する人もいます。そのギャップをどうするか。

もちろん、どちらの側面も建築家の職能を取り巻く現実です。現状を見る限り、前者は公共建築を手がけるうえでの方法論になるでしょうが、その作品は海を渡って紹介されることは難しく、後者はビジュアルこそ世界を駆け巡るための方法論となるでしょうが、プロジェクトは美術館でのインスタレーションと国際コンペ案ばかり、という「グローバル・アーキテクト」になる可能性もあります。前者が組織、後者がアトリエ型建築家の進む道の先にあたり、前者の方法論をフォローしたのが今回の夜楽校、後者のそれをフォローしたのがARCHITECT TOKYO、というところでしょう。

結局、プロジェクトはあるけれど有名になれない組織派と、有名だけどプロジェクトがないアトリエの対立を追認するばかりです。

そうした構図を打破ずる唯一のスタンスが、「コミュニケーションのプロセスをアイコンにする」というアクロバティックな方法論によって、両者を架橋しているコールハース、MVRDVということになるのではないか。コミュニケーションのプロセスに介入し、ローカリティを抽出してアイコンにする方法論的なコンセプトを身につけることが、現代を活きる建築家の生命線であると、言えるのではないか。

このところの議論の先に、見えてきたのはそんなパースペクティブです。

2007年にフリーペーパーを創刊し、世代論の切り出しからスタートした議論は、職能の位置づけや設計プロセス論を抽出し、教育や経営、政治の議論へと接続されてきました。

議論そのものは多くの人を巻き込みながら、漸進的に進化しているとは思います。ブロガー諸兄のレビューを読んでいると、理解度がどんどん深まっているのがわかります。決して礼賛してくれるわけではないけれど、確信に基づいて明快な文章を書いてくれる。常に外部へ問いかけようとしている僕らとしては、何よりも嬉しいことです。

他方、今回のシンポジウムに関しては下記のようなレポートもありました。

建築夜学校の第2夜が行われる。(地方競馬に栄光あれ)

先ほどのリンク先をたどって頂ければわかるように、実際には活発な意見交換と議論が展開されたにもかかわらず、「盛り上がりに欠けた」「観念論をこね回す議論」「言葉遊び」など厳しい表現が続きます。もちろん、物事の解釈はひとつではないのですが、何がこの方をしてこのようなネガティブなレポートをわざわざ書かせたのでしょう。

どれだけ濃密な議論が展開されても、あるいは、濃密な議論が展開されればされるほど、このような疎外感を抱いてしまう人が発生する。それは毎回力を入れて議論を行うたびに感じることです。

理由は単純で、コンテクストを共有していない、というだけのこと。

解決法もまた単純で、このような人にこそしつこくアプローチをして、何度も参加を呼びかけることです。2度、3度と参加してもらううちにコンテクストが読めてきて、そのうち冷静で分析的なレポートを書いてくれるようになるでしょうし、こちらも彼らにコンテクストを共有してもらおうと工夫を重ねるので、自然とバージョンアップします。

学生でも同じことで、なんとなく話を聞いて、よくわからないと投げやりな印象論で否定的な態度を取ろうとしますが、「ノートを取り、質問を考え、最後まで残る」ことを呼びかけ続けると、やがて積極的に参加するようになります。

そういった説得と学習のプロセスで、自分たちの議論も少しずつ進化して行けばよい。そして、もっと多くの人を巻き込んで行きたいと思います。

今年もパネラーや参加して下さった皆さんのおかげで濃密な議論が展開できました。「建築夜楽校」という、1990年代から脈々と続く議論の場の歴史の一部に参加できたことを嬉しく思っています。

この流れを、11月の大阪、12月の北海道での仕掛けに繋げて行ければと思います。両者とも、鋭意準備中ですのでご期待下さい。


fujimura

2009年10月22日

「ARCHITECTURE AFTER 1995」展開催のお知らせ

この度、AD&A gallery(大阪・肥後橋)を会場に、展覧会「ARCHITECTURE AFTER 1995」展が2009年11月6日(金)より開催されますこととなりましたのでお知らせ致します。

お忙しいことと存じますが、足をお運び頂ければ幸いです。

藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT

**(以下、概要)

展覧会「ARCHITECTURE AFTER 1995」展
日時:2009年11月6日(金) - 17日(火) 12:00-20:00(6日は12:00-18:00)
会場:AD&A gallery(肥後橋)
入場無料
主催:建築展実行委員会
特別協賛:大阪工業技術専門学校(天満橋)
後援:AD&A gallery
キュレーション:TEAM ROUNDABOUT
オープニング:2009年11月6日(金) 21:30- (AD&A gallery)

テーマ:「1995年以後」の都市状況から、新たな建築家の役割を考える
趣旨:阪神大震災、オウム真理教事件によって既存の都市インフラの脆弱性が露呈し、「windows95」が発売され、「インターネット元年」と呼ばれて新しい情報インフラの可能性が顕在化した「1995年」以後、現代の社会は一方で情報技術への依存を強め、他方で風景の固有性を失いつつあります。他方、設計技術の情報化は設計プロセスのあり方を変え、新たな建築表現の可能性を示唆しています。そこで本展覧会では、同年以後に活動を展開する次世代の建築家に注目し、現代社会における建築家の役割と可能性を考える機会とします。

出展建築家
乾久美子 梅林克 垣内光司 木村松本 SPACESPACE dot architects 中山英之 中村竜治 藤村龍至 藤本壮介 松岡聡田村裕希 満田衛資 宮本佳明 森田一弥 吉村靖孝

関連企画:ワークショップ
期間:2009年11月7日(土)-8日(日) 9:00-17:30
概要:学生チームにより「1995年以後の住宅」の模型300個を制作します。制作された模型は「ARCHITECTURE AFTER 1995」展1階会場に展示され、模型制作を通じて展覧会のキュレーションのプロセスに参加して頂きます。

参加申込方法:大阪工業技術専門学校までお問い合わせ下さい

キックオフ・ミーティング「『1995年以後』を考える」
日時:2009年11月6日(金)19:00-21:00
会場:大阪工業技術専門学校
パネリスト:鈴木謙介 藤村龍至
概要:「1995年」とは、どんな転機であったのか。社会学者と建築家の対談を通じて、展覧会の趣旨を伝えると同時に、ワークショップのイントロダクションとします。
入場料:学生無料 社会人1,000円

シンポジウムA「『2000年以後』を考える」
日時:2009年11月8日(日)19:00-21:00
会場:大阪工業技術専門学校
プレゼンテータ:垣内光司 木村松本 SPACESPACE dot architects
パネリスト:五十嵐太郎
モデレータ:TEAM ROUNDABOUT
概要:「1995年以後」のコンテクストは、現代の建築家の実践にどのような影響を与え、どのように次の時代へと引き継ぐことができるか。ここでは、2000年に東京・ギャラリー間で行われた「空間から状況へ」展を監修した五十嵐太郎氏を迎え、「2000年以後」のコンテクストについて討議を行います。
入場料:学生無料 社会人1,000円

シンポジウムB「『2010年以後』を考える」
日時:2009年11月14日(土)17:00-20:00
会場:大阪工業技術専門学校
パネリスト:梅林克 中山英之 宮本佳明
モデレータ:TEAM ROUNDABOUT
概要:展覧会を通じて生まれた議論の総括として、「空間から状況へ」展に出展していた建築家、および本展出展作家を迎え、「2010年以後」の展望について、世代を超えた討議を行います。
入場料:学生無料 社会人1,000円

本件に関するお問い合わせ先

(一般・ワークショップ参加希望)
ARCHITECTURE AFTER 1995 事務局
大阪工業技術専門学校
06-6352-0091
担当:岸上勝彦

(プレス)
藤村龍至建築設計事務所
03-3476-6508
office*ryujifujimura.jp
担当:畑克敏

以上


fujimura

2009年10月26日

衝動的フリーペーパー

95年以後展、準備を急ピッチで進行中。いつもの通り、予算も時間もギリギリですが、出展者の皆さんに協力頂き、実行委員の皆さんと連係をとり徐々にカタチになりつつあります。

ワークショップは既に準備が始まっている模様。関西の学生100名が集まり、2日間で1995年以後の模型300個を作成するという企画です。大学生だけでなく、専門学校生、高校生がチームを組み、プロの指導を受けつつ模型制作のスキルを身につけます。模型の課題は1995年以後の雑誌からランダムに抽出し、成果物は展覧会のメインコンテンツのひとつとなります。

学生や一般の方々を巻き込み仕掛けとしてワークショップという企画はよくありますが、展覧会のおまけのように扱うのではなく、きちんと技術の教育をして、そのうえでキュレーションのプロセスそのものに巻き込む仕掛けを盛り込みました。

実行委員会のメンバーも、TEAM ROUNDABOUTも、それぞれの仕事で忙しくしていますが、力を合わせて成功させたいところです。

そんなふうにテンパっている折、僕のことをいろいろと書いてくれているブログを見つけました。

政治家的建築家 藤村龍至論(上) Ryuji Fujimura: Political Architect (1)
政治家的建築家 藤村龍至論(下) Ryuji Fujimura: Political Architect (2)

どういうわけか、僕は非モテ系ブロガーにターゲットにされる傾向があるのですが、彼もその一派のようです。しかも、失礼なことばかり書いてくれている。

もともと建築的ライターとして様々なメディアに登場していたが、近年高円寺に集合住宅と店舗の複合したビルを実現し、建築家としての手腕も示した人物だ。

うーん。「建築的ライター」と名乗ったことはないのだが。最初の作品発表は『新建築』の2004年10月号で、文章を本格的に書くようになるよりずっと前。

佐藤敏宏さんのサイトで、『藤村龍至さんとベラ・ジュンさんと建築あそび』をみて以来興味を持っていた人物なので、まだ学生あがりだった頃から一応知っていたことになるが、

興味を持って頂くのはありがたいが、「学生あがり」なんて言葉をweb上で使うかな。

建築家が勝手に自分のメディアを作るというのは、実はかなり伝統的な行為でもある。『エスプリ・ヌーヴォー』を創刊したル・コルビュジェはじめ、アーキグラムやレム・コールハース等、枚挙に暇がない。

まあ、そんなことは世界の常識ですが。

彼らの初期衝動は、まず間違いなく「俺をみろ」という一念だったろう。「自分が世界で一番面白いことを考えているはずなのに、誰も実際にアイデアを実現する機会を与えてくれない、どのメディアも取り上げてくれない。ならば自分で自分を取り上げるメディアを作ってしまおう」という哀しい怒りだ。

雑誌メディアにはデビュー作から掲載の機会を与えて頂いている(もっとも、最初の頃は撮影・掲載して頂くまでに随分と時間がかかり、絶望的な気分になっていた)し、文章はその前からいろいろな媒体で書かせて頂いていた。「哀しい怒り」など感じたことはなく、むしろ経験の少ない自分にいろいろなことを教えて下さった編集者の方々にはいつも感謝の気持ちを忘れたことはない。それはコルビジュエだってコールハースだって同じだろう。何を勘違いしているのだろうか。

この人物はおそらく、僕らのフリーペーパーの実物を読んだことがないのだろう。RAJは「ブログと雑誌を繋ぐ」をスローガンに、メディアに出ている人物から出たことのない人物まで、幅広く取り上げている。若い建築家や学生の皆さんに執筆の機会を与え、編集者の方々に情報提供する役割を果たしてきたし、既にメディアに出ている方々にも、既存の記事では見られないRAJならではの切り口を提供している。自分たちや他人の宣伝というよりも、議論の場を取り戻したい、という社会的な動機に基づいており、「建築」という職業に対する奉仕活動である。宣伝が目的ならば自分だけ取り挙げれば良いし、ビッグネームとだけ対談すればよい。「同世代」などという切り口は明らかに効率が悪いではないか。

私個人に対する挑発ならともかく、許し難い書き方もあった。

若手建築家はまだ正規メディアにそこまで取り上げられていないし、そんなに忙しくもないので、

失礼極まりない、この書き方はどうだろうか。忙しい時間を割いて協力して下さっているインタビュイの皆さんを見下すような言い方は許し難い。

実際に、インタビューを受けて下さった方のなかには「これまで受けたインタビューのなかで最も自分の方法論に肉薄したインタビューだった」「新しいイメージを切り拓いてくれた」と言って下さる方もいるし、なかには「RAJのインタビューだったら喜んで承ける」と言って下さる人もいる。

インタビューというものは、信頼してもらえないと承けてもらえないし、読んでもらえない。建築家がメディアをつくるというのは、その意味でずっと難しいのである。そういう緊張感の中でやっているということをこのブログの主は理解するべきである。

こうした議論の場は、本来ならば社会に用意されているべきものである。しかし、2000年以降の出版不況によって専門誌が次々と休刊するなかで、従来型の生き生きとした議論の場は次々と失われてしまった。誰かが替わりの場所を用意してくれる、と待っていても始まらない。誰かがやらなければいけない。だから僕たちは自分たちも議論の場づくりに参加するしかない、と活動を始めたのである。繰り返すが、これはあくまで職業に対する奉仕であり、それを通じた社会貢献である。決して内輪の戯れではない。

それにしても、このブログの主はこのような書き方をすれば、自分の見方の浅さを露呈するだけなのに、なぜわざわざこのようなエントリを上げるのか、理解に苦しむ。もっとも、後半はもう少し肯定的なニュアンスで期待を込めて書いてくれているので、失礼極まりないこのエントリも、彼なりの(勇気ある)支持表明の表現だと受け取っておこう。

他方で、こんなブログもあった。

超線形性プロセスって面白いの?(オマな日々)

このブログの主はオマのスタッフらしい。今年のSDレビューに出していたようだが、あの作品こそ「面白いの?」スペクタクル「しか」ないんじゃないの?あんなの、本当に建つの?と逆に聞きたい気分ではある。

そんな反論はさておき、彼の指摘に応えるならば、まず『ユリイカ』では設計プロセスの話に特化しているので詳しい話は伝わらなかったので、こちらのイメージしている設計の「濃密さ」のイメージが伝わり切らなかったのだろうとは思う。例えば、BUILDING Kには空調室外機を裏返して排気ルートを集約し、開放型のダクトを形成している箇所がある。しかもしかもそのダクト部分は構造コアとなり、外観上は周辺のスケールに馴染むための壁面の分節になっている、というアイディアの集積があるが、これなどは設計プロセスの洗い出しを行った成果である。

僕は設計プロセスというのは、枝分かれ、後戻りの繰り返しだと思っている。その費やされる膨大な時間と努力の向こうに誰も予期しなかったアイディアや面白さを発見出来るのではないかと。

念のために突っ込んでおくが、そんなことはあたりまえである(笑)。無限に時間をかけられれば誰でも期しなかったアイディアや面白さを発見出来る可能性は高まるに決まっている。しかし、それでは現代の設計事務所の仕事というより、伝統工芸作家のそれのようになってしまう。社会の経済活動の一端を担うならば、「限られた時間で」誰でも期しなかったアイディアや面白さを発見出来なければならない。その確率を高めるには、より効率的なプロセス論を構築する必要があるというのは誰でもわかる話だろう。

だから私たちは自分たちでもすぐ実行できる仕事上の工夫として、段階毎に模型を残し、合意形成の履歴を可視化して情報共有の効率を高めようとしているのである。それが完璧で揺るぎない唯一の方法だとは思わないが、ちょっとした努力で成果が感じられるならば、やらない手はないと思うのだ。言葉遊びでもなんでもなく、実務に携わるものとして、経営者として、極めてプラクティカルな発想ではないか。

ちなみに、彼が「チェックリスト」と呼んでいるものはちょっと違う。あの「表」は事前に用意した項目を潰したものではなく、プロセスを事後的に振り返って作成したものだ。プロセスを洗い出す中で「発見された」境界条件のリストである。

意図的に挑発的に書くことで自己宣伝しようとする先ほどの某氏より、このオマ氏は思ったことを書いただけのようだから、書き方は失礼だが、許せないことはない。学生たちと一緒で、今は単にこちらの考えに対する理解が浅いだけであるから、いずれ理解してもらえるだろう。

ある考えが周囲に伝わるには実に多くの時間がかかる。それでも今はネットがあるから、昔よりはるかに効率良く考えを伝えることができるのだろうとは思う。もちろん、聞かなくても済むようなネガティブな評判までこちらに届いてしまうのは精神的に少々疲れるが、こちらはそのメッセージで生きて行こうとしているのだから、それを伝えないわけにはいかない。自己宣伝のような欲求とは少し違う。もう少し衝動的なものである。

衝動で作られたフリーペーパーと、単なる宣伝のために作られたフリーペーパーの違いは迫力に現れる。今回の「ARCHITECTURE AFTER 1995」展も、ほとんど衝動的につくられている。その迫力は感じてもらえるのではないかと思う。衝動に任せている分、関係者に迷惑をかけていることも多いことは自覚しているつもりだが、必死に準備をしていると出展して下さる方々の気合いが伝わってきて、一緒にやって下さる方の気持ちを無駄にしないようにしたい、と思いを新たにする次第である。

自分たちの宣伝をしようなどと考えず、批評レベルでの緊張感を保ち、かつ真面目に取り組んでいれば、「なんだあいつら」と斜に構える人々を正面向かせることはいずれ叶うだろう。我ながら楽観的に過ぎるが、地道にやるだけと思えば特段難しいことではない。

というわけで6日から始まる展覧会に向けて、ラストスパートしております。関係者の皆さん、どうぞよろしくお願いします。


fujimura

About 2009年10月

2009年10月にブログ「roundabout journal」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2009年09月です。

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他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。